本居宣長とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

本居宣長もとおりのりなが

はその名前をよく聞くわりには何をやったのかあまり知られておりません。

さて今回は

そんな本居宣長の人格形成と偉業について

総集編として語ってまいります。

 

本居宣長はどんな人?

プロフィール
本居宣長もとおりのりなが

本居宣長四十四歳自画自賛像
(部分) 安永2年(1773年)
出典:Wikipedia

  • 出身地:伊勢松坂(今の三重県松阪市)
  • 生年月日:1730年6月21日
  • 死亡年月日:1801年11月5日(享年71才)
  • 江戸時代の国学者。『古事記伝』を書き上げる

 

本居宣長と年表

年表

1730年(0才)本居宣長生まれる

1740年(10才)宣長、父を亡くす。家督は宣長の義兄定治

1752年(22才)宣長の義兄定治亡くなり、宣長が家督を継ぐ。小津の姓をやめ、ルーツである伊勢北畠家臣「本居」の姓で名乗り始める。

1763年(33才)国学の大家賀茂真淵(かものまぶち)と会い、学問などの話をする。「松坂の一夜」

1764年(34才)宣長、『古事記伝』編纂を始める

1798年(68才)『古事記伝』脱稿

1801年(71才)宣長亡くなる

 

家業にとことん不向きに生まれた青春

本居宣長は伊勢松坂(今の三重県松阪市)の木綿仲買商に血統としては長男に生まれました。

しかし、自他ともに認める

「商売不向き」

15才ごろ江戸に見習いに出、

何を思ったか

仕事中読書をし、叔父さんにそのレッテルを貼られます。

満18才でほかの商家へと養子に入りますが、

和歌の習い事を始めてしまいました。

おかげで3年で

「離縁」となり、実家に帰るほかなくなります。

それから2年ほどして、

今度は実家を継がなければならなくなります。

が、宣長は江戸の店をすぐにたたんでしまい、お母さんにお願いします。

「京で医学と儒学の遊学をやらせてください」

なんとお母さんはこれを受けます。

 

国学にのめりこんでゆく

夢にまで見た京の都。

そのみやびにうかれたのか。

宣長は次第にいろんなわき道へとそれ始めます。

日本本来の古典や道徳、……。

人や書物をたよりにドンドンのめりこみ、その学を深めてゆきます。

それでも、医学を修め

郷里松坂に帰ると、

さっそく医師として開業します。

もちろん一方では、

大好きな

『源氏物語』
『新古今和歌集』
『日本書紀』
……。

やがて、それまで世にあまり注目されてこなかった

『古事記』

について研究し、その著作を始めます。

『古事記伝』

です。

 

代表作『古事記伝』にいどむ

当時、漢字による当て字で書かれていたものを宣長の時代の言葉に翻訳。

いくつもの『古事記』の写本を見比べてその正確さにはかなりシビアにこだわりました。

さらに、

宣長なりの注釈などをつけ、

かなりわかりやすくなりました。

全44巻。

医業やほかの研究著作のかたわらかかった年数35年

とにかく、あきらめない。

そして、自分ができることはしっかりやりきるんだ。

というなみなみならぬ姿勢を彼は言葉としていくつも残しております。

そして、こういう姿勢というのは、

あの幼少時代の影響が多分にあるのではないかと思います。

周囲の理解に恵まれなかった人が「なにか」を見つけてしまってからというのは。

偉人シリーズにはよくあるパターンですね(ただ、悪い方に暴走する場合もあります)。

その大作はいまだに古代研究の基本テキストとして大きな影響を与え続けております。

そして、

こういった丁寧で徹底的な姿勢はほかの古典研究でもその力を大いに発揮しております。

 

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本居宣長のほかの業績とあの「映画監督」

本居宣長は

『古事記伝』以外にもたくさんの著作を残しております。

随筆『玉勝間たまかつま
歌論『石上私淑言(いそのかみささめごと)』
経済書『秘本玉くしげ』
など。

そして、
邪馬台国はいったいどこにあったのか?

いわゆる

「邪馬台国論争」を世に投じたことでも知られております。

宣長は「九州説」

を採ったといわれております。

ただ、その時代の人の意見が今の時代の邪馬台国専門書籍においてすら

まだ参考として紹介されることがあるのですから、

たいしたものですね。

ちなみに昭和を代表する映画監督。

日本のさりげない日常の奥ゆかしさをたくみに描き出した

『東京物語』
『お茶漬けの味』

などで世界に知られた

あの“小津”安二郎

は本居宣長の一族なんですね。

日本ならではの繊細美

「もののあわれ」

にたいそう心を寄せていた宣長を確かにどこか彷彿とさせますね。

 

関連記事 >>>> 「日本のルーツってなに?本居宣長が自分の生まれた国に追い求めた世界観『古事記伝』」

 

きょうのまとめ

宣長の当時はまだ学問といえば漢学、儒学、……。

外国渡来のものに脚光が当たっておりました。

でも、宣長は自分たちの一番足元である

「日本」

を今一度掘り返そうとしたんですね。

① 本居宣長は商家に生まれながら家業にかなり不向きで、ムチャなこと反抗的なこともいっぱいやったあげくの思いで京都へと遊学に出た

② 本居宣長の『古事記伝』はいまだに古代研究の基礎テキストとして評価が高い

③ 本居宣長の一族には世界に知られた日本映画監督「小津安二郎」がいる

さすがは神の国「伊勢」の人。

そして、宣長ならではの”叛骨”がよく表れていますね。

追伸、
医者としてもとても優秀だったようですよ。

 
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