1823年に長崎・出島のオランダ商館付医師として来日したシーボルトは、翌年、長崎郊外に「鳴滝塾」という私塾を創設します。
鳴滝塾には講義を受けたいという医師が各地から集まり、シーボルトは約6年間のうちに50人以上の弟子を育て、日本での西洋医学の普及に大きく貢献しました。
まさにこのことが日本におけるシーボルトの一番の功績だといえます。
鳴滝塾はいったいどんな想いで、またどんな経緯で創設されたのか。
その背景を詳しく辿っていきましょう。
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鳴滝塾創設の経緯とは?
シーボルトは結果的に「日本に西洋医学を伝えた人」という位置づけになっていますが、もともと彼がそういうつもりで日本に訪れたかというと、少し違うような気がします。
彼が日本にやってきたのは、東洋医学に興味をもったからで、日本では主に薬草の採集などに力を入れていました。
つまり第一は自身の研究のための来日で、鳴滝塾の開塾に関しては偶然のことです。
しかし同時に、彼が本来の目的を叶えられたのは、鳴滝塾あってのことだともいえます。
出島から出られない問題を実力で解決したシーボルト
江戸時代の日本では、窓口である出島以外の場所に、外国人が出歩くことは禁止されていました。
各地の植物などを研究したいシーボルトとしては、この点がネックとなりますが、彼はこの問題を自らの腕で解決してみせます。
1823年に来日し、オランダ商館付けの医師として施設内で診療をしていたシーボルトは次第に話題となり、市内の外科医が主宰する私塾などでも講義をするように。
するとそこからさらに人が集まるようになり、シーボルトの講義はそれらの施設ではまかなえない規模になっていきます。
これを受けて1824年に長崎奉公より許可が下り、長崎郊外の土地を購入し、鳴滝塾を創設するにいたりました。
出島の外に土地を持てたのだから、もちろん出島外の植物採集などもOK。
つまりシーボルトは外国人が出島から絶対に出られない現状を、素晴らしい診療や講義をすることで解決したのです。
シーボルトにとって鳴滝塾とは
鳴滝塾でのシーボルトの活動内容は、診療と講義を行うかたわら、採集してきた植物を庭で栽培するなど。
また弟子たちの宿舎としても利用されていました。
こうしてシーボルトは自身の願いを叶えると同時に、日本に西洋医学を普及させるという大義を果たしていきます。
といっても、日本人の医師と多く関係をもったことにも、東洋医学の知識を深めたい側面があったのでしょうから、西洋医学の普及に関しては副産物的なものと考えられますね。
彼は西洋医学の権威として称えられますが、本人としてはそんなに仰々しい功績を残すつもりがあったわけでなく、研究に没頭する充実した日々を送っていただけなのかもしれません。
鳴滝塾のその後
シーボルトが帰国したあとの鳴滝塾は、妻の楠本滝が再婚する際に売り払われ、一時は全盛期の面影もない荒れ地へと変貌を遂げていました。
しかし1859年に再来日したシーボルトが、これを買い戻して整地。
鳴滝塾の創設は偶然の産物でも、このときの彼にとってはやはり、弟子たちとの絆が生まれた特別な場所に変わっていたのですね。
その後も鳴滝塾は娘のイネによって保護され、1922年には「シーボルト宅跡」の名称で国から史跡に指定されました。
<シーボルト宅跡>
塾生にはどんな人がいた?
鳴滝塾からは総勢50名以上の医師や学者が輩出されています。
著名になった人物はたくさんいますが、ここでは特に有名な数人を紹介しておきましょう。
高野長英
高野長英は、養父の高野玄斎が杉田玄白の弟子ということもあり、幼少より蘭方医術に親しんで来た経緯のある人物です。
鳴滝塾でも一番の学力を見せ、塾頭になっていました。
ただ…塾を出たあとの生涯は壮絶の一言です。
1837年、保護した日本人を送り届けるため、日本に訪れた外国船を幕府が攻撃するという、「モリソン号事件」が勃発。
長英はこのとき幕府を批判して投獄されます。
しかしなんと、投獄されて5年後に脱獄。
同じ鳴滝塾出身の二宮敬作に助けられ、宇和島藩主・伊達宗城のもとに身を寄せ、蘭学書の翻訳などに従事します。
晩年は、塩酸を被って人相を変え、名前も変えて江戸で町医者をしていましたが、これがバレて再度投獄されることに。
結局は捕縛の際に暴行され、命を落としています…。
才能のある人物なのに、幕府の意に背いたことで活躍の場が限られたことが悔やまれますね。
二宮敬作
二宮敬作はシーボルトが特に可愛がっていた弟子。
シーボルトが江戸に赴く際には同行し、日本で初めての富士山の測量を果たした功績もあります。
また敬作が九州の高山から持ち帰った植物に、シーボルトは「ケイサキイアワモチ」という名前を付けました。
このほかにも妻の楠本滝にちなみ、紫陽花の一種に「オタクサ」という名前を付けるなどもしており、植物に人の名前を付けるのは、シーボルト流の親交の証と取れます。
シーボルトが国外追放になった際も、敬作は漁師のフリをして駆け付け、
「娘のイネを頼む」
と言い渡された逸話も。
その言葉通り、後に宇和島で開業医となった敬作はイネを弟子として育て、日本人初の女性産婦人科医にしています。
1859年に再来日したシーボルトはこのことにいたく感動したのだとか。
岡研介
岡研介は、美馬順三とともに鳴滝塾の塾長を任され、シーボルトの不在時に講義を行うなどの重役を担った人物でした。
塾を出たあとは周防国(現・山口県)岩国藩主・吉川経礼に見初められ専属の医師になっています。
伊東玄朴
伊東玄朴はシーボルトが江戸に赴いた際に同行するとそのまま江戸に留まり、医学所を創設した人物。
後に第13代将軍・徳川家定が病に伏したことをきっかけに、幕府専属の医師にもなっています。
このようにシーボルトの弟子の多くは藩主や幕府のお抱え医師になっていた人物も多く、そうでなくとも開業医として活躍した人物が軒を連ねます。
鳴滝塾がいかに日本医学の最先端だったかが垣間見えますね。
きょうのまとめ
シーボルトが来日した本来の理由は、東洋医学の研究のため。
鳴滝塾を創設し、西洋医学の普及に貢献したのは成り行きともいえ、自身に研究の場を与えてくれた当時の人たちへのお返しとも取れます。
最後に今回のまとめです。
① 鳴滝塾はシーボルトにとっては研究の足掛かりになった場所。西洋医学の普及は副産物的なもの?
② 多くの日本人医師との絆が生まれ、鳴滝塾はシーボルトにとってかけがえのない場所となった。
③ 塾生にはその後、藩主や幕府のお抱え医師になった者も多い。
なにはともあれ、シーボルトの来日や鳴滝塾がなければ、現在の日本の医学は大きく変わっていたでしょう。
出島の外へ出たこと、そして多くの医師との交流を求めた彼の探求心に感謝しなければいけませんね。
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