信西(藤原信西)は、藤原南家出身の中流貴族で学者であり、僧侶でもあります。
そんな彼は、武士が台頭し始めた時代に起きた大きな事件に関わりました。
信西とはどんな人物だったのでしょうか。
タップでお好きな項目へ:目次
信西はどんな人?
- 出身地:不詳
- 生年月日:1106年
- 死亡年月日:1160年1月23日*(享年55歳)
- 学問に長けた秀才で後白河天皇に重用された僧侶参謀。急進的な政策などで怨みを買い、平治の乱にて自害に追い込まれた
*旧暦では平治元年12月13日だが、1159年12月13日や1160年1月23日とも表わされる。
信西年表
西暦(年齢)
1106年(1歳)誕生
1112年(7歳)父・藤原実兼が急死。通憲(のちの信西)は縁戚の高階家の養子となる
1124年(19歳)妻の藤原朝子が鳥羽上皇の皇子雅仁親王(のちの後白河天皇)の乳母となる
1143年(38歳)学問の道を諦めて出家し、法名を信西とする
1156年(50歳)後白河天皇即位
1156年(51歳)崩御した鳥羽法皇の葬儀を取り仕切る。7月、保元の乱
1158年(53歳)美福門院と信西の「仏と仏の評定」によって二条天皇が即位する
1160年(55歳)平治の乱。自害する
信西の生涯
藤原南家出身の中流貴族で、元々の名前は藤原通憲といいました。
信西は出家してからの法名ですが、ここでは信西に統一してご紹介いたします。
無双の秀才の挫折と出家
実父を7歳の時に失った信西は、受領で経済的に裕福だった高階家の養子となります。
信西の実父の家系が学者でもあったため、彼は学業に励み、その常人を越えた学力の高さは以下のように讃えられました。
・「漢文、和文、天文を極め、今の世どころかいにしえにも例がない俊才」(『今鏡』)
当時その博識、事務的能力、学識の高さで称賛されていた藤原北家の才人・藤原頼長と並ぶ程の人物だったと言われています。
信西は実父の家系の祖先たちのように学者として身を立てたかったのですが、後ろ楯のない彼には世襲色の濃い大学寮での出世は望めません。
また、実務官僚の道も、既得権に固執する先任の官僚たちに妨害されてかないません。
将来に絶望した信西は出家してしまいました。
ただし、出家をしても俗世から完全に離れるつもりのなかった信西は、以下の歌を残しています。
ぬぎかふる 衣の色は 名のみして こころをそめぬ ことをしぞ思ふ(『月詣和歌集』)
(出家して墨染めの衣に着替えても、それは名ばかりのこと。私の心まで染めるつもりはない)
後白河天皇の乳父
信西の妻・藤原朝子は、鳥羽天皇の皇子・雅仁親王の乳母でしたが、それが信西の出世のチャンスとなりました。
先代の近衛天皇が若くして死没したため、29歳の雅仁親王が後白河天皇として即位したからです。
ただし後白河天皇は、彼の実子であり且つ美福門院の養子となっていた守仁親王(のちの二条天皇)が即位するまでのつなぎの天皇でした。
その乳父となった信西は、僧でありながら後白河天皇に重用されるようになっていきました。
保元の乱で成功した信西が買った反感
後白河天皇の政治を側近として支えたのは信西や関白の藤原忠通です。
当時、皇位継承を巡って後白河天皇は崇徳上皇と対立していました。
それに摂関家の内紛もからまり、藤原頼長、崇徳上皇らは後白河天皇側と武力で激突。
これが1156年の保元の乱です。
天皇の参謀として源義朝の夜襲アイデアを採用した信西の活躍もあり、戦いは戦闘を担当した源義朝、平清盛らを抱える後白河天皇側の勝利に終わりました。
乱後信西は、
・摂関家弱体化
・天皇親政
・荘園整理
・大内裏再建
などを実行。
しかも、信西は僧侶でありながら、故鳥羽上皇の后・美福門院との間で出家者同士による「仏と仏の評定」を行い、まだ少年である二条天皇の即位についても決めてしまいます。
さらに信西は、自分の息子を新天皇の側近とすることにも成功。
しかし彼は、これらの権力行使によって天皇側の側近たちを敵にまわしてしまいました。
さらに、後白河上皇の院政に深く関わった信西は、他の院近臣にも反発を買い、特に後白河上皇の寵臣だった藤原信頼と対立したのです。
平治の乱、信西の死
上皇の側近・藤原信頼は、天皇方の側近たちと組み、さらに保元の乱の戦勝後の扱いに不満のあった武士・源義朝、源光保らを味方につけて「打倒信西」の共通目的のために協力体制を敷きました。
藤原信頼と天皇方の兵士たちは、1160年(平治元年)、中立の立場だった当時の最大軍事貴族・平清盛が熊野詣で都を留守にしている隙にクーデターを起こしたのです。
これが平治の乱の始まりです。
信西を狙った兵は、後白河上皇のいる院御所の三条殿を襲います。
襲撃を察知していた信西は、前もって山城国の田原に避難していました。
竹筒で空気穴を作った土中の箱の中に隠れていたのですが、追っ手に発見されると彼は喉を突いて自害してしまいました。
箱が掘り起こされた時にはまだ目が動き、息もしていたと言われます。
信西を襲ったクーデターの後には、京に戻った平清盛が後白河上皇軍として源義朝の兵たちを打ち破り、平治の乱は後白河上皇側の勝利に終わりました。
しかし、源光保に取られた信西の首は都大路で晒され、信西の息子たちは配流されています。
信西と頼長の友情
保元の乱で対立した信西と摂関家の藤原頼長とは、かつて学問に長けた者同士の交流がありました。
信西は要職に就けないことを理由に出家する時の決意を頼長に告白しています。
と彼は頼長に告げました。
頼長は
と彼の日記『台記』に記しています。
しかし1156年の保元の乱では、後白河天皇側についていた信西は、崇徳上皇側の藤原頼長とはいつしか敵同士の関係になっています。
戦の結果は信西のついた後白河天皇方の勝利で終わりました。
のちに、藤原頼長が別れの挨拶のために密かに崇徳上皇の御所に忍ぼうとした時のこと。
信西はそれを見咎めた自分の部下に頼長を見逃すよう命じ、のちの世の人々はその行為を称賛したといいます。
かつての友情を思い出しての温情だったのかもしれません。
信西の功績
信西は、頭脳明晰で彼が信念に基づいて決断、実行してきたことが、ともすると悪役であるように誤解されがちです。
そんな彼も、史学史上貴重な研究対象となる文献を編纂した功績者です。
【信西が編纂した歴史書『本朝世紀』】
・信西の才能を買った鳥羽上皇の命によって編纂された
・『日本書紀』に始まる国史『六国史』を継承した歴史書
・宇多天皇から近衛天皇までの約250年間にわたる宮廷での事跡を年代に沿って整理編纂された
・1160年の平治の乱による信西の死亡と共に作業は途絶したが、100巻を越える未定稿のうち20巻ほどが現存
・史学史上重要とされる根本史料
【信西が収集整理した法律書『法曹類林』】
・平安時代に活用され、現在でも法律制度や社会を知ることのできる貴重な史料
・全230巻のうち4巻現存
・信西が地道に分類・収集した法令集と判例集である
学者としての緻密な研究によって体系的にまとめられたこれら書物は、彼の功績として認められるべきものです。
信西による政治介入により、政界において古くから特権濫用をして利益を貪っていた人々や摂関家は大きな打撃をうけました。
彼の急進的な政策は特権階級の人々には煙たがられましたが、民衆には評判がよかったと言われ、彼の死は多くの庶民たち悼まれたそうです。
信西の墓所
信西が追っ手に発見されて自害したとされる、宇治田原の地に信西塚があります。
かつて奈良時代に創建された大道寺があり、院政期には信西の荘園になっていた場所です。
都でさらされた信西の首を領民が貰い受け、この場所に塚を築いてその菩提を弔ったそうです。
すぐ近くには「信西の首洗い池」と呼ばれる小さな池も。
現在の供養塔は大正5年に建てられたものです。
<信西入道塚:京都府綴喜郡宇治田原町立川宮ノ前>
きょうのまとめ
信西とは?簡単にまとめると
① 藤原頼長と並んで才能と学識の高さで評判になった学者
② 後白河天皇政権で重用された僧侶参謀
③ 急進的な政策と権力の行使によって、後白河上皇の院近臣仲間にも二条天皇側近たちにも敵を作り、結果平治の乱で命を落とした人物
でした。
政治に深く介入した秀才僧侶・信西。
彼の完全な白でもなく黒でもない生き方は、とても人間的だったと言えそうです。
目次に戻る ▶▶
その他の人物はこちら
平安時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【平安時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す