竹鶴政孝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

国内で最初に本格ウィスキーを作った「ニッカウヰスキー」の創業者・

竹鶴政孝たけつるまさたか

ウィスキー造りに邁進し続けたその生涯は、2014年のNHK連続テレビ小説『マッサン』のモデルとなったことで、なんとなく知っている人も多いでしょう。

そう、ドラマ化されることもうなづけるほど、波乱に満ちた人生を送った人なんですよね。

宝酒造やサントリーの前身で製造を担い、最後は自らニッカウヰスキーを設立するという、国内の洋酒メーカーを網羅したその経歴は圧巻です。

竹鶴政孝とは、いったいどんな人だったのか、今回はその生涯に迫ってみましょう。

 

竹鶴政孝はどんな人?

プロフィール
竹鶴政孝たけつるまさたか

竹鶴政孝胸像
(ニッカウヰスキー北海道工場余市蒸溜所にて)
出典:Wikipedia

  • 出身地:広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)
  • 生年月日:1894年6月20日
  • 死亡年月日:1979年8月29日(享年 85歳)
  • 本場スコットランドでウィスキーの製造を学び、日本で最初に本格ウィスキーを作った「日本のウィスキーの父」。摂津酒造、寿屋(現・サントリー)を経てニッカウヰスキーを創立した。

 

竹鶴政孝 年表

年表

西暦(年齢)

1894年(1歳)広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)にて竹鶴酒造を営む父・竹鶴敬次郎の三男として生まれる。

1916年(22歳)大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)醸造科を卒業。先輩の伝手を頼り、摂津酒造(1964年に宝酒造と合併)へ入社する。

1918年(24歳)摂津酒造社長・阿部喜兵衛の命を受け、本場のウィスキー研究をするべくスコットランドへ留学。グラスゴー大学や現地の蒸留所で学ぶ。

1920年(26歳)スコットランド人のジェシー・ロバータ・カウン(竹鶴リタ)と結婚。リタを連れて帰国する。

1923年(29歳)国産の本格ウィスキー製造を企画していた鳥井信治郎から声がかかり、寿屋(現・サントリー)に入社する。

1924年(30歳)初代所長として山崎蒸留所を竣工。

1929年(35歳)竹鶴の最初のウィスキーとなる『サントリー白札』を発売。

1934年(40歳)寿屋を退職。大日本果汁株式会社(現・ニッカウヰスキー)を設立し、北海道余市でウィスキー造りを開始する。

1940年(46歳)余市で作られた最初のウィスキー「ニッカウヰスキー」を発売。戦時中は海軍の配給品として重宝された。

1941年(47歳)余市に「竹鶴シャンツェ」というスキーのジャンプ台を建設する。

1951年(57歳)東京に本社を移し、社名を「ニッカウヰスキー」に変更。東京工場を建設する。

1956~1963年(62~69歳)「丸びんニッキー」「スーパーニッカ」「ハイニッカ」などの製品を通して全国ブランドに成長する。

1969年(75歳)宮城県・新川の水質を気に入り、宮城峡蒸留所を建設・竣工する。勲三等瑞宝章の勲章を授与される。

1970年(76歳)本格的道産酒開発の功績から、北海道開発功労賞を授与される。

1972年(78歳)ニッカウヰスキー所属のジャンプスキー選手・笠谷幸生が札幌オリンピックで金メダルを獲得。記念して余市に「笠谷シャンツェ」を建設する。

1979年(85歳)東京の順天堂大学医学部付属順天堂医院にて、肺炎により没する。

 

竹鶴政孝の生涯

ここからは竹鶴政孝の生涯について、より詳しくエピソードを辿っていきましょう!

竹鶴酒造の跡取りとして育った少年期

1894年、竹鶴政孝は広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)にて、竹鶴酒造を営む父・竹鶴敬三郎の三男として生まれます。

竹鶴家は地元では三本の指に入る大地主で、兼ねてから製塩業・酒造業を家業としてきました。

父・敬三郎はその分家筋にあたるのですが、本家夫妻が若くして亡くなったため竹鶴酒造を継ぐことに。

政孝はその酒造を遊び場としながら、幼少期を過ごしていくことになります。

晩年になっても少年時代の古傷がいたるところに残っているほど、相当なやんちゃ坊主だった政孝。

「階段から転げ落ち、怪我したことで鼻が人一倍大きくなり、そのおかげで人より鼻が利くようになった」

という逸話もあります。

その鼻の高さはスコットランド留学中も大学教授からスペイン人と間違われるほどで、現地のウィスキー職人からは

「ウィスキー造りは嗅覚が命。その点、君はいい鼻をしている」

と褒められたのだとか。

また当時の広島では、日本一のブランドとなった兵庫の灘酒に対抗しうる日本酒を広島から輩出しようという動きが活発で、父・敬三郎も熱心に新酒開発に臨んでいたといいます。

父親の仕事に対する厳格な姿勢は、その跡取りとなる政孝へもしっかりと受け継がれていきました。

内閣総理大臣・池田勇人との関係

政孝は広島の忠海中学校を経て、大阪工業高等学校醸造科へと進むのですが、ここで特筆すべきは、1960~64年の内閣総理大臣を務めた池田勇人との関係です。

池田は忠海中学校時代の政孝のひとつ下の後輩にあたり、寮長を務めていた政孝を相当に慕っていました。

当時、政孝の布団の上げ下ろし役をしていた池田との関係は終生続き、池田が政治家になってからも

・国際的なパーティでは必ず国産ウィスキーの使用を指定した

・政孝がパーティを開いた際、選挙当日に関わらず選挙本部を抜け出して駆け付けた

という逸話が残されています。

政孝は中学時代、柔道部の主将も務めていたといいますし、のちにニッカウヰスキーの社員の誰もが政孝を慕ったように、このころからリーダーシップに秀でた部分があったのでしょうね。

摂津酒造への入社

22歳のころ、大阪工業高等学校醸造科の卒業を控えていた政孝は、自らの進路に疑問を抱え始めます。

長男、次男が相次いで酒造を継ぐことを嫌った竹鶴家では、家業を継ぐのはもはや三男の政孝のほかにはいませんでした。

そして醸造科の生徒たちはたいていが酒造の息子で、誰もが政孝と同じような運命を辿ることになっています。

しかしそんな敷かれたレールのうえを走ることに、政孝は正直納得がいっていなかったのです。

どの道、ゆくゆくは家業を継がなければいけないなら、それまでの少しのあいだだけでも、何か新しいことにチャレンジしたい。

この考えから政孝は、模造ウィスキーや赤玉ポートワインなど、洋酒の製造で注目を集めていた摂津酒造(1964年に宝酒造と合併)に、期間限定で入社することになります。

同じ学校の卒業生で摂津酒造の常務をしていた岩井喜一郎を通じて摂津酒造に入った政孝。

当初は

「ちょっと学校で勉強しただけの若造に何ができる」

と職人たちからバカにされていたといいますが、会社に泊まり込みで仕事や研究に励む姿から、あっという間に周囲の信用を得ていきました。

なかでも取り沙汰されたのが、赤玉ポートワインの品質管理に関して。

当時、国内のワイン研究はまだまだ発展途上。

夏場の暑さでワインが異常発酵し、店頭でびんが破裂する事故が相次いだことがありました。

しかしそのなかで政孝が管理した赤玉ポートワインは、異常発酵を起こすものなどひとつもなかったのです。

この一件は終生、徹底した品質管理にこだわった政孝の酒造りのモットーが示された最初の事例といえるでしょう。

スコットランド留学

入社して1年ほどが過ぎた24歳のころ、政孝は摂津酒造の阿部喜兵衛社長からスコットランドへの留学を命じられることとなります。

当時の国内では色と香りを真似ただけの模造ウィスキーが出回っていました。

そんな市場において、阿部社長は本格ウィスキーの製造に踏み出す必要性を感じ、政孝に本場の技術習得を託したのです。

この時点で期間限定で入社したはずの政孝が家業を継ぐ線はほぼなくなり、両親はたいそう悲しがったという話も…。

ともあれ、仕事熱心な姿勢を認められ、入社からわずか1年で社運をかけたプロジェクトを任されるほどになった政孝は、本場スコットランドにて、ウィスキー造りを習得することになります。

現地でも変わらず研究に励んだ政孝の姿は、1962年に来日したイギリスのヒューム外相から

「ひとりの青年がノートと万年筆で、ウィスキーの製造技術をすべて盗んでいった」

と、冗談のネタにされるほどでした。

苦悩に満ちたスコットランドでの日々

ヒューム外相の発言などを見ると、政孝は順風満帆な留学生活を送れたかのように感じさせられますが、実はこれが苦難の連続でした。

グラスゴー大学への入学にこぎつけ、有機化学・応用化学を専攻したものの、学校の講義ではウィスキー造りのことにはほとんど触れられなかったのです。

大学の教授を頼りに、現地の書物を通して学ぼうともしましたが、ウィスキー造りは現場で学んでこそのもの。

座学には限界があります。

帰国後、政孝のウィスキー造りのバイブルとなる『ウィスキー並びに酒精製造法』の著者J.A.ネルトン氏に直接教えを請おうと訪ねたこともありましたが、これも授業料がとても払える額ではなく頓挫。

結局は醸造所を何件も周って実地実習を頼み込み、ようやくたどり着いたのがエルギンという街の「ロングモーン醸造所」でした。

わずか1週間の実習でしたが、醸造所の職人たちは蒸留や熟成の手法を丁寧に教えてくれたといいます。

職人の誰もが嫌がる醸造機の洗浄

「中身が見たいから」

といって引き受けた逸話があり、そんな政孝の姿に多くの職人が心を動かされたことが伺えます。

このロングモーン醸造所と、翌年赴くことになるキャンベルタウンという街の「ヘーゼルバーン蒸留所」での実地実習により、政孝は本場のウィスキー造りを完ぺきにものにして見せるのです。

竹鶴リタとの出会い

政孝のスコットランド留学においてもうひとつ外せない出来事が、スコットランド人のジェシー・ロバータ・カウン(竹鶴リタ)との出会いです。

グラスゴー大学で頻繁に図書館へ通っていた政孝は、リタの妹にあたる女学生イザベラ・リリアン・カウン(通称エラ)と知り合います。

政孝が学生時代柔道部だったこともあり、エラから

「弟に柔道を教えてやってほしい」

とお願いされ、招かれたカウン家にてリタと出会うのです。

ピアノを弾くリタと、鼓を持参していた政孝がスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン(話題・蛍の光)」を合奏したことが、ふたりの馴れ初めだったといいます。

そこからリタや政孝の家族は全員反対していたにも関わらず結婚を決めてしまうのだから、よほどに惹かれ合うものがあったのでしょう。

なにより感心させられるのはリタの覚悟です。

政孝は当初、リタと結婚するためにスコットランドに残ってもいいと考えていたのですが、彼のウィスキー造りの夢を知っていたリタは

「いいえ、あなたは日本へ帰ってやることがあるはずです」

と、自ら母国を捨て、日本に行くことを決めました。

日本文化にいち早く打ち解けようと努力したリタは日本料理を学び、特に塩辛や漬物に関しては食べる時期に応じて塩加減や漬け方を変えるほどの習熟ぶりだったといいます。

ニッカウヰスキーの社員に料理を振る舞うことも多々あったといい、ウィスキー造りとは別の面で政孝をサポートし続けていきました。

寿屋(現・サントリー)にて日本初の本格ウィスキーを発売

1920年、政孝は26歳のころに、2年間の留学を終えて帰国します。

ここから摂津酒造は本格ウィスキーの製造を始動…

のはずだったのですが、実はこの企画は世界大恐慌のあおりを受け、資金調達の面から頓挫してしまうのです。

阿部社長の温情から高給を得ていた政孝ですが、このことから

「ウィスキー造りをしないなら、こんなに多くの給料をいただくわけにはいかない」

と、自ら退職を願い出ます。

その後はしばらくは高校教師として留学期間に学んだ化学を教えるようになり、酒造りから離れた生活をすることに。

そんな政孝のもとに、1923年、寿屋(現・サントリー)鳥井信治郎社長から連絡が入ります。

そう、ウィスキー製造の依頼です。

このとき寿屋は日本初の本格ウィスキーの製造を企画しており、スコットランドから技師を呼び寄せようとしていました。

すると先方から

「日本にはもうウィスキー造りに精通した竹鶴という技師がいるはずだが」

という返事が返ってきたというのです。

こうして政孝は寿屋に入社することになり、1924年、30歳のころに山崎蒸留所を竣工。

そこから4年の歳月をかけ、国内初の本格ウィスキー『サントリー白札』を発売するにいたります。

“サントリー”という商品名は「サン=太陽」と「トリー=鳥井社長」にちなんだもの。

のちに社名となっていることから、寿屋のターニングポイントとなった出来事であることも伺えますね。

政孝と鳥井社長の関係はよくなかった?

寿屋の鳥井社長とタッグを組み、見事日本初の本格ウィスキーを完成させた政孝。

しかし実のところ、ふたりの関係ウィスキー事業はあまりうまくいっていなかったという話もあります。

その理由は…

・ウィスキーは熟成に期間を要するため出資者を待たせる形となってしまい、『サントリー白札』の発売も鳥井社長がしびれを切らせた結果だった

・本格ウィスキー特有の焦げ臭さが日本人にはウケず、『サントリー白札』はあまり売れなかった

・政孝は山崎蒸留所の所長を務めるかたわら横浜のビール工場も任されることになったが、そのビール工場を鳥井社長がすぐに売却してしまった

などなど。

会社の利益を守っていかなければいかない鳥井社長と、品質を徹底するためにコストを惜しまない政孝のあいだには相容れない部分もあったようです。

こういったことと、もともと10年の契約だったこともあり、政孝は1934年、40歳で寿屋を退職

ここから自らブランドを起こしてのウィスキー造りに挑んでいくこととなります。

「ニッカウヰスキー」の設立

寿屋がウィスキー造りの場に選んだのは、大阪と京都の境い目にあたる山崎でした。

これは鳥井社長が、

「ウィスキー造りに適していることも大事だが、工場を建てるなら顧客が見学できる場所でないと」

といったため。

政孝が日本でウィスキーの製造に向いていると考えていた場所は、山崎ではありませんでした。

ウィスキー造りの適任地とは、北海道余市

「ニッカウヰスキー」の前身「大日本果汁株式会社」が設立されたその場所でした。

水質や気候がスコットランドに近く、蒸留の行程でウィスキーを燻すのに使われるピートも豊富。

(※ピート…炭化した水生植物。泥炭ともいう)

朝の霧がかった景色などは、まさにスコットランドそのものだと政孝は口にしています。

この地で政孝は「ニッカウヰスキー」という、本格ウィスキーのブランドを以降全国規模に成長させていくのです。

晩年になった76歳のころ、1970年には、ウィスキーの聖地として余市の名を全国に広めた功績から、北海道開発功労賞を受賞。

果ては「日本のウィスキーの父」の名をほしいままにしていきます。

ちなみにオリンピックのジャンプスキーにて、

・笠原幸生

・船木和喜

・斎藤裕哉

といったメダリストを多数輩出した余市のジャンプ台

・「竹鶴シャンツェ」

・「笠谷シャンツェ」

も政孝が設置したもの。

企業がスポーツのスポンサーとなったことに関しても、ニッカウヰスキーがその先駆けとなっています。

リンゴジュース工場としてスタートした大日本果汁株式会社

ニッカウヰスキーの設立時の「大日本果汁株式会社」という社名を聞いて

「え?ウィスキーの会社じゃないの?」

と思った人もいるのではないでしょうか。

実は1934年の創業当初、大日本果汁はリンゴジュースの会社としてスタートしています。

『サントリー白札』の例でもそうだったように、ウィスキーは製造に熟成期間を要するため、会社を設立してもすぐに利益に繋げられません。

その期間をつなぐため、政孝は余市の特産であるリンゴに目をつけ、まずはリンゴジュースの製造で利益を出してから、ウィスキーの製造に臨もうと考えたのです。

こうして始動した大日本果汁の事業は

「落ちて傷物になったリンゴや、不揃いのものでもあそこの工場なら買い取ってくれる」

と、リンゴ農家のあいだで話題となり、工場の前には連日、リンゴを積んだ馬車の列ができていたといいます。

絞ってジュースにしてしまうなら傷物でも関係なく、原料の調達には苦労しなかったのです。

ただこのリンゴジュースは、なんでも本格派にこだわる政孝の性分が災いし、目測していた利益を生むことはありませんでした。

大日本果汁のリンゴジュースは、一本に5個のリンゴを使った果汁100%

人工甘味料が当たり前となった時代にこんな代物を出すと、以下のような問題が出てきます。

・ほかのジュースの5倍ぐらいの値段がする

・人工甘味料に慣れている消費者にとって、リンゴだけのジュースはすっぱすぎる

・リンゴをそのまま絞っているためジュースが白濁し、不良品だと返品されることが多かった

このような経緯からリンゴジュース事業は軌道に乗らず、政孝は結局その利益を宛てにせずウィスキーの製造を始めることに。

熟成期間、何年も赤字だったことはいうまでもありません。

それを支える出資者が多数いた理由は、政孝の一貫してこだわりぬく姿勢に裏打ちされた信用にほかならないでしょう。

ウィスキー事業もなかなか軌道に乗らず…

紆余曲折を経て、政孝は1940年、46歳のころに『ニッカウヰスキー』を発売します。

ここに来てようやく、その夢が形になった!

…と思うところですが、その商品展開にしてもまたうまくいきません。

第二次世界大戦の影響でウィスキーのような嗜好品は贅沢だとされ、製造規制を受けてしまうのです。

幸いなことに大日本果汁のウィスキーは海軍の支給品となり、買い取りや原料となる大麦の配給を受けることができたため、ウィスキー造り自体は続けられたのですが…

このときの買取価格は1本120円ほどだったのに対し、法律を逃れた裏ルートでは1本1500円で取り引きされているという、なんともやり切れない事態に。

政孝がそんな裏取引に手を出すはずもなく、作れば作るほど、なんだか損をしているような、そんな葛藤に苛まれていたようですね…。

苦渋の決断から三級ウィスキーを製造

戦後はウィスキーの規制がなくなったこと、安価なものほど重宝される市場となったことで、税法上安く流通させることができる三級ウィスキーが出回ります。

三級ウィスキーとは原酒の割合が5%以下のもののことで、アルコールに色と匂いをつけて、ウィスキーを真似しただけのようなものがほとんどでした。

なかには原酒を一切含まないものまで流通していたといいます。

政孝の性分を考えても

「わしは三級ウィスキーは作らん」

と言い張ることは目に見えていますが、そんな市場の流れから、ニッカウヰスキーはもはや崖っぷちの経営難に。

このままでは社員に給料が払えなくなってしまう…

という状況を経て、政孝は三級ウィスキーの製造にも乗り出していきます。

政孝を父親にように慕っていたニッカウヰスキーの社員たちは、三級ウィスキー製造の発表を受け、全員が悔し涙を流したのだとか…。

ニッカウヰスキーが発売した三級ウィスキーは、跡取りとなる養子のたけしが監修した『スペシャルブレンドウィスキー』や『丸びんニッキー』など。

これらにはせめてもの抵抗というべきか、税法上ギリギリのラインの5%いっぱいまで原酒が使われていました。

政孝としては不本意ながら、晩年ニッカウヰスキーが日本を代表する銘柄へと育っていったのは、この三級ウィスキーで経営を支えた時代があってこそです。

そして2001年のこと、ウィスキー雑誌『ウィスキーマガジン』の主宰するイベント「ベスト・オブ・ザ・ベスト(現・ワールド・ウィスキー・アワード)」にて、ニッカウヰスキーの『シングルカスク余市10年』世界一位に輝いています。

政孝が傾け続けたウィスキーへの情熱は後継へと受け継がれ、ついに本場スコットランドをもしのぐブランドへとなり得たのです。

「三級品は作らん」というプライドを捨ててでも経営を続けた努力は、着実に報われているのですね!

 

きょうのまとめ

酒造の息子という生い立ちから洋酒の世界へ飛び込み、情熱ひとつでニッカウヰスキーを世界一のウィスキーメーカーへと育てた竹鶴政孝。

当時の日本にはウィスキー造りを学べる環境もなければ、スコットランドと比べて土地的な不利さもありました。

スコットランド留学の面倒を見てくれた摂津酒造の阿部社長、異国の地に渡り献身的に支えてくれた妻のリタ、共に悔し涙を流したニッカウヰスキーの社員たち…

挙げ出せばキリがありませんが、こういった人とのつながりが、政孝の情熱の源だったのではないでしょうか。

最後に今回のまとめです。

① 竹鶴政孝は実家の竹鶴酒造を継ぐ予定だったが、摂津酒造社長から酒造りへの情熱を買われ、スコットランド留学に。そこからウィスキー一筋の人生が始まる。

② 寿屋(現・サントリー)にて発売した、初の国産本格ウィスキー『サントリー白札』は日本人受けが悪く売れなかった。

③ 日本でスコットランドに最も近い土地・北海道余市にて、ニッカウヰスキーを国内一のブランドへと育てる。時代柄、本格ウィスキーが売れず、三級品の製造を余儀なくされる屈辱もあった。

他人からの恩を思うとき、我々人間は何倍も力を発揮できるものなのかもしれません。

苦境に立たされたとき、それを乗り越えるためのお手本を、政孝はその生き様で示してくれているようですね。

 
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