千利休は日本史上最も有名な茶道家です。
豊臣秀吉の側近にまでなった茶人・千利休は、どんな人物だったのでしょうか。
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千利休はどんな人?
- 出身地:和泉国・堺(現在の大阪府堺市)
- 生年月日:1522年
- 死亡年月日:1591年4月21日(享年70歳)
- 茶の湯の天下三宗匠、茶聖と称されたわび茶の完成者。織田信長、豊臣秀吉に仕えたが、最後は秀吉に切腹を命じられた
千利休 年表
西暦(年齢)
1522年(1歳)和泉国・堺の商人・田中与兵衛の二男・与四郎として誕生
1540年(19歳)茶の湯を学び、宗易を名乗る
1569年(48歳)堺が織田信長の直轄地となる
1570年(49歳)今井宗久、津田宗及とともに茶堂として宗易(利休)が召し抱えられる
1575年(54歳)越前の一向一揆を討つための鉄砲玉を織田信長のために調達
1582年(61歳)本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える
1583年(62歳)豊臣秀吉に認められ、茶坊主に取り立てられる。茶室・待庵を完成する
1585年(64歳)正親町天皇に茶を献じ、「利休」の居士号を与えられる。黄金の茶室の設計
1587年(66歳)北野大茶会を主管
1590年(69歳)小田原征伐に従う
1591年(70歳)秀吉に堺蟄居を命じられる。のち、京の聚楽屋敷内で切腹
千利休の生涯
茶を嗜む商人・利休
千利休の誕生は1522年。
堺で「魚屋」と号する倉庫業を営む商家の出です。
商人の教養として茶の湯に親しんでいた利休は、17歳から堺の茶匠として知られる北向道陳を師としました。
その後、堺の豪商で茶人の武野紹鴎に師事したと言われますが、近年師事したのが茶人であり連歌師の辻玄哉だった可能性も指摘されています。
商家の生まれの利休は、30代40代は商売に打ち込み、堺の実質的支配者・三好氏の御用商人として財を成しました。
また、堺の南宗寺で禅の修行を積み、その本山である京都の大徳寺とも関わりがあります。
この大徳寺の住持となった大林宗套から「宗易」の名を賜わり、当時は「千宗易」と名乗っていました。
織田信長に仕える利休
1569年以降は堺が三好氏から織田信長の直轄地へと変わります。
その過程で、利休は堺の豪商茶人だった今井宗久、津田宗及とともに信長の茶頭として召し抱えられました。
・1575年 信長の越前一向一揆討伐のための鉄砲玉調達を行う
など、利休の活躍が記録に残っています。
しかし、1582年、織田信長は本能寺の変で亡くなってしまいました。
豊臣秀吉に重用される利休
信長の死後、利休は豊臣秀吉に仕えます。
1583年に利休が秀吉の命より茶室「待庵」を作りました。
無駄をそぎ落とした究極の茶室は、現存する利休作による唯一の茶室。
国宝です。
利休はわび茶の形を完成し、日本文化として茶道を発展させました。
・1584年 秀吉築城の大阪城内に2畳の茶室を作り、茶庭の始まりをつくる
・1585年 秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕するに際し、居士号「利休」を天皇から賜る
・同年 秀吉のために黄金の茶室を設計
・1587年 秀吉主催の北野大茶湯を主管
このように秀吉に重用された利休は、秀吉が完成させた聚楽第内に屋敷を構え、築庭にも関わり、禄も3000石を賜りました。
多くの大名を弟子に抱え、茶人としての名声と権威に加え、秀吉の側近の一人として政治にも影響力を持ちました。
豊臣政権内で力のあった秀吉の弟・豊臣秀長が、
「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」
と大友宗麟に忠告したことが記録に残っています。
秀吉が命じた利休の切腹
1591年、千利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられました。
「利休七哲」と呼ばれる古田織部、細川忠興ら利休の高弟である大名たちが奔走しますが、利休を助けることはできません。
そして堺から京都に呼び戻された利休は切腹を命じられます。
秀吉は利休の弟子大名たちによる利休奪還を恐れ、上杉景勝に命じて3000兵で利休の屋敷を取り囲んだといいます。
そんな中、利休は聚楽第内の屋敷で切腹し、生涯を終えました。
死後、利休の首は一条戻橋で梟首(さらし首)され、秀吉の怒りの原因となったとされる大徳寺の利休自身の木像に踏ませたということです。
千利休の罪とは?
一体利休は、なぜ秀吉の怒りを買ってしまったのでしょうか。
利休無念の死
利休邸に切腹命令を告げる3名の使者がやって来たとき、利休は驚きもせずこう言いました。
彼らに生涯最後の茶を点てたあと、利休の門弟でもある蒔田淡路守の介錯(見届け役との説も)で切腹しました。
彼の最期の瞬間は、介錯に立ち会ったほんの少数の人々が知るだけです。
一説には、茶室の床に腰を掛け、腹を十文字にかき切ると、臓腑を摑みだして蛭鈎(柱などの物を引っかける金具)にかけるほど壮絶だったとも。
無念の死であったことには違いありません。
その日、屋敷の外は激しい雷雨。
京の人々は北野天満宮の祭神・菅原道真が利休の死を怒って雷雨を起こしたと噂したそうです。
秀吉が利休に切腹を申し付けた理由
前提として、豊臣政権における利休の立ち場が弱まっていたことが挙げられます。
1591年、利休をバックアップしていた豊臣秀長が死去。
これが利休の立場に影響しました。
天下人の弟である秀長は、温厚・寛容な人物。
多くの人に慕われており、秀吉のよい補佐役として、秀吉をなだめることができる数少ない人物の一人でした。
もし彼が生きていれば、秀吉の怒りを抑え、利休の切腹を止めることができたかもしれません。
なぜ秀吉は利休に怒ったのか?
秀吉の怒りの原因として、秀吉も通る大徳寺の三門の利休像が、まるで利休が秀吉の頭を足で踏みつけるように置かれていたから、というのは有名な話。
しかし、これはおそらくただの言いがかり。
本当の原因について諸説があります。
利休が、
・秀吉の朝鮮出兵に反対したから
・渋好みで、秀吉の派手好みと合わず、芸術的な嗜好が対立していたから
・彼の娘を秀吉の側室にすることを拒否したから
・安価な茶器類を高額に販売していると秀吉が疑ったから
などです。
しかし、どの理由が直接の原因となったかは明確になっていません。
理由は一つだけではなかったかもしれません。
いずれにせよ、政治に影響力を持つようになった利休と、秀吉との考え方の違いが原因だったと想像されます。
秀吉の側近にまで上り詰めた茶人・利休は、武士の死の形である切腹となりました。
千利休の墓所
利休の墓がある聚光院
大徳寺敷地内にある塔頭の中のひとつ。
もともと三好義継が父・長慶の菩提を弔うため建立しました。
大徳寺第107世住職の笑嶺宗訢が千利休の禅の師匠だった関係から、利休が聚光院を自分の菩提寺としたのです。
境内には利休の墓を中心に三千家歴代の墓所があります。
<大徳寺聚光院:京都府京都市北区紫野大徳寺町58>
利休の遺髪が埋葬された南宗寺
南宗寺は大林宗套が開いた寺院です。
千利休や彼の師匠と言われる武野紹鴎がここで禅の修行をしていました。
利休の遺髪が埋葬された供養塔をはじめ、茶道三千家の供養塔、武野紹鴎の墓もあります。
<南宗寺:大阪府堺市堺区南旅篭町東3丁-1-2>
きょうのまとめ
今回は、商人から天下人付きの茶人となり、政治的な力まで持つことになった茶聖・千利休の生涯をご紹介しました。
千利休とは
① わび茶の完成と、茶の湯を中心とした文化を発展させた茶人
② 多くの大名を弟子に抱え、政治的影響力をもった豊臣秀吉の側近
③ 秀吉との考え方の違いで無念の切腹をさせられた人物
でした。
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