みなさんは「鳴くよウグイス平安京」
と言って、平安京遷都の年号を覚えたことありませんか。
早良親王は、794年に桓武天皇が京都南部の長岡京から平安京へ遷都した理由に関わる人物です。
何があったのでしょうか。
そして、彼はどんな人物だったのでしょう?
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早良親王はどんな人?
- 出身地:不詳
- 生年月日:750年か?
- 死亡年月日:785年9月28日
- 桓武天皇の弟。785年の藤原種継暗殺事件に連座して流罪となり、無実を訴えたが配流される途中で憤死した。それを恨んで日本史上最強最悪の怨霊になったとされる
早良親王年表
西暦(年齢)
750年(1歳)光仁天皇の皇子として誕生
761年(12歳)出家して親王禅師と呼ばれる(後年東大寺の良弁の後継者となる)
781年(32歳)兄・桓武天皇の即位と同時に還俗して立太子
785年(36歳)藤原種継暗殺事件発生。連座して皇太弟を廃され、幽閉される。のち無実を訴えて絶食したのち憤死
早良親王の生涯
幸か不幸か早良親王は、平安京へ遷都したことで知られる桓武天皇の弟でした。
高僧から立太子へ
750年、光仁天皇の皇子として誕生した早良親王。
母親は髙野新笠、そして母親を同じくする彼の兄は、のちの桓武天皇となる山部王です。
母方が下級貴族だったため早良親王も山部王も共に将来天皇になる可能性は低く、立太子していません。
761年、早良親王は出家して親王禅師と呼ばれ、東大寺羂索院、大安寺東院等で修行しました。
やがて東大寺で開山だった良弁の後継者となるほどの高僧となります。
781年、政争を経て兄が桓武天皇に即位しました。
そこで、父の光仁天皇は早良親王を還俗させ、立太子させたのです。
・早良親王に后も子もなく、早良親王が亡くなっても将来的に安殿親王が天皇即位できると判断されたから
これらの考えが早良親王の立太子の背後にあったと考えられます。
事件に連座した早良親王と彼の死
785年、京都南部に遷都した長岡京で都の造営責任者・藤原種継が暗殺されました。
この一大事件によって、事件に関与した人物たちが斬首、流罪などの処分を受けています。
その時に早良親王も連座して淡路国への流罪が決まったのです。
無罪を主張した早良親王でしたが、結局配流途中に河内国にて死亡。
桓武天皇は早良親王の亡骸を配流先の淡路国に埋葬させています。
のち805年になってから早良親王はこの陵から大和国の陵墓へと移葬されました。
藤原種継暗殺事件とは
785年の9月23日の夜、遷都してきたばかりの長岡京で、都の造営監督作業中の藤原種継が矢で射られて翌日死亡した事件です。
ちょうど桓武天皇が都を留守にしていたタイミングでした。
捕縛された大伴竹良、大伴継人をはじめとする大伴氏たちは斬首、さらに関係を疑われた皇族たちも連座して流罪。
合計10数名が処罰されました。
その中の一人として流罪に処されたのが早良親王です。
暗殺事件は、早良親王を担いだ者たちの桓武天皇体制への謀反であると考えられたのです。
早良親王は無実を訴えながら配流途中に亡くなり、その無念と怨みのために怨霊になったと言われています。
その怨霊による怪異現象に悩まされた桓武天皇は、遷都してきたばかりの長岡京を捨てて平安京へ遷都しました。
つまり、この藤原種継暗殺事件が平安京遷都への発端となっています。
早良親王が流罪となった理由
藤原種継暗殺事件に早良親王が本当に関与していたかどうかはわかっていません。
少なくとも早良親王は無罪を主張しました。
早良親王の死の謎
藤原種継の暗殺事件に連座させられた早良親王は、廃太子され、幽閉されました。
そして淡路国に流される途中で、河内国の高瀬橋(大阪府守口市高瀬神社)付近で死亡。
その死については2通りの説があります。
・桓武天皇がわざと飲食物を与えず餓死させるという方法での処刑
どちらにせよ、早良親王の死亡直後に桓武天皇が遺体を引き取ることはなく、配流予定先だった淡路国で埋葬させています。
桓武天皇と早良親王の間には確執があったのです。
なぜ桓武天皇は早良親王を流刑にしたか
早良親王は東大寺の高僧でした。
寺の開山である良弁が死に際に東大寺のことを親王に託したほどの実力者だったのです。
結局早良親王は還俗して立太子し、皇室に戻りました。
しかし、それ以降も東大寺はことあるごとに重要事項を必ず親王に相談したので、東大寺と皇室に強い結びつきができました。
一方、桓武天皇が長岡京を造営していた理由の一つは、
「政治に大きな影響力を持っていた東大寺、大安寺などの奈良寺院との関係を断ち切るため」
でした。
桓武天皇は、長岡京造営の責任者・藤原種継を暗殺した事件は、
「方針に反対する奈良寺院が背後に関係し、早良親王を担ぎ上げて謀反を企てたのではないか」
と疑ったのです。
そのため、桓武天皇は奈良仏教界の最高位にあった自分の弟・早良親王の責任を追求したのでした。
同時に、南都の仏教勢力を牽制する意味もあったと考えられています。
最強で最悪?怨霊になった早良親王の呪い
無実を主張したまま亡くなった早良親王は、この世に大きな怨みを残して怨霊になったと言われています。
その後、それを証明するかのように奇怪な出来事が長岡京に頻発しました。
・桓武天皇妃の藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死
・桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死
・暴風雨、地震、旱魃・虫害・寒冷による凶作、疫病の流行
当時の陰陽師の占いにより、これらが早良親王の祟りによるものだと判断されました。
そこで桓武天皇は、祟りを鎮めようとさまざまな鎮魂の儀式を行います。
しかし怪異現象や地震などが止まらなかったため、ついに桓武天皇はまだ造営中だった長岡京を捨てて、794年に平安京へと遷都したのでした。
平安京は風水にかなった四神相応の地であるとされ、結界を張るなどの陰陽道的な仕掛けで、呪いを徹底的に排除しようと作られた都でした。
平安京でも怪異現象や地震に悩み、さらに富士山の噴火などを受けて桓武天皇はさらに、
・早良親王が葬られた淡路国の陵に陰陽師・僧を送って陳謝
・805年に親王の遺骸を淡路国から大和国の崇道天皇陵に移葬
などを行っています。
その後も慰霊や法要などが行われたことから、人々が早良親王の祟りを非常に怖れていたことがわかります。
・平将門
・崇徳院
などは、芝居や物語などでもよく知られる日本三大怨霊ですね。
実は、彼らほど知られていませんが、早良親王はそれを上回る最強最悪の怨霊だと言われています。
彼は物語にすることさえもはばかれるほど怖れられ、採り上げられることがなかったのです。
都を一つ滅ぼしてしまうほどの威力を持った怨霊。
それが早良親王でした。
早良親王の墓所 八島陵
藤原種継暗殺事件での無罪を立証するために絶食し、流罪先の淡路国へ向かう途中で憤死した早良親王。
彼の陵は奈良にあります。
怨霊になったと言われる皇子の祟りを鎮めるために「崇道天皇」と追称され、淡路国から大和国へ改葬されたものが、現在の奈良県にある八島陵(崇道天皇陵)です。
周辺には、嶋田神社、崇道天皇社など早良親王関連の神社も点在しています。
<早良親王の墓所 八島陵(崇道天皇陵):奈良市八島町>
きょうのまとめ
早良親王とは
① 長岡京から平安京へ遷都を行った桓武天皇の弟
② 東大寺の高僧だったが還俗して皇室に戻った皇子
③ 藤原種継暗殺事件の関係者として連座し配流される途中で無念無念の死を遂げた親王
③ 長岡京・平安京に多くの不幸・天災・怪異現象を起こした、日本史上最強の怨霊になった人物
でした。
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