滝廉太郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

音楽の教科書で誰しも一度は目にする明治時代の作曲家・

滝廉太郎たきれんたろう

代表作「荒城の月」は、九州旅客鉄道・豊後竹田駅の列車到着メロディに、「花」は東京メトロ銀座線浅草駅のご当地メロディになるなど、その楽曲は長きに渡り愛され続けています。

鎖国を終えたばかりの明治期に西洋音楽の要素をいち早く取り入れた廉太郎。

それこそJ-POPは西洋音楽が土台となっているため、彼は現代の日本の音楽シーンの礎を築いた存在だといえます。

滝廉太郎とはいったいどんな人物だったのか。

いかにして類稀な音楽センスが磨かれていったのか、その生涯に迫ってみましょう。

 

滝廉太郎はどんな人?

プロフィール
たきれんたろう

滝廉太郎

  • 出身地:大分県竹田市
  • 生年月日:1879年8月24日
  • 死亡年月日:1903年6月29日(享年23歳)
  • 「荒城の月」「箱根八里」「鳩ぽっぽ」「お正月」などの国民的名曲で知られる作曲家。明治期の日本において、西洋音楽普及の一端を担った。

 

滝廉太郎 年表

年表

西暦(年齢)

1879年(1歳)東京府芝区南佐久町(現・港区西新橋)にて、内務官僚・地方官などを歴任した瀧吉弘たきよしひろの長男として生まれる。

1886年(7歳)神奈川県師範学校付属小学校に入学する。同年、富山県尋常師範学校付属小学校に転校。

1888年(9歳)東京市麹町尋常小学校に転校。

1890年(11歳)麹町尋常小学校を卒業し、大分県尋常小学校高等科に入学する。

1892年(13歳)直入郡なおいりぐん小学校高等科に転入する。

1894年(15歳)小学校高等科を卒業し、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽部)予科に史上最年少で入学。翌年本科へ進む。

1898年(19歳)音楽学校本科を首席で卒業し、研究科へ進む。

1899年(20歳)東京音楽学校にて、教師として授業補助を任せられる。

1900年(21歳)麹町区博愛教会で洗礼を受け、クリスチャンになる。組曲『四季』を発表。

1901年(22歳)文部省編纂『中学唱歌』にて「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤ほうたいこう」、『幼稚園唱歌』にて「鳩ぽっぽ」「お正月」「雪やこんこん」などを発表し、作曲家として注目を浴びる。文部留学生となり、ドイツのラプツィヒ音楽院へ入学する。

1902年(23歳)結核を患い帰国。

1903年(23歳)遺作『うらみ』を発表。大分県の自宅で療養するも回復せず没する。

 

滝廉太郎の生涯

ここからは滝廉太郎の生涯にまつわるエピソードを、より詳しく辿ってみましょう。

5度の転校を繰り返した幼少期

1879年、滝廉太郎は東京府芝区南佐久町(現・港区西新橋)にて生を受けます。

父の吉弘は外務省から内務省へ転じ、伊藤博文や大久保利通などのもとで10年間働いた官僚

廉太郎が生まれてからは地方役人としてさまざまな任地へ移ったため、廉太郎も幼少から転校を繰り返すこととなります。

このことから「神奈川・富山・大分・東京」と、ゆかりの地を多くもつ廉太郎は、各地で音楽の素養を身につけていきました。

・神奈川…外国文化の流入が盛んだった横浜に住んでおり、姉たちが外国婦人からアコーディオンやヴァイオリンを習っていたため、廉太郎もその影響を受ける

・富山…この地で過ごした3年のあいだに富山初の音楽会が開かれ、参加

・東京…麹町尋常小学校の卒業式でピアノを演奏

・大分…県下でも珍しかったオルガンが直入郡小学校高等科にあったため、その演奏技術を学ぶ機会に恵まれる。学校の裏にあった岡城址で尺八の見事な演奏を披露し、学生たちを驚かせた

などなど、廉太郎の音楽に関する幼少期の逸話が、移り住んだどの土地にもあります。

まだまだ楽聖と呼ばれる以前の話ながら、さまざまな楽器を身につけた才覚に驚かされますね。

東京音楽学校への入学

15歳で直入郡小学校高等科を卒業した廉太郎は、音楽の才能をさらに磨くべく、東京高等師範学校附属音楽学校(のちに東京音楽学校、東京芸術大学音楽部となる)へ進みます。

ただこの入学の話は、実はそうすんなりとは進みませんでした。

瀧家は代々、大分県・日出藩ひじはん家老職を務めてきた名門で、父・吉弘が政府の役人を務めたのも、その流れを汲むものです。

吉弘としてはその瀧家の長男たるもの、同じように役人の道を志してほしいところ。

そのため音楽の道へ進みたいという廉太郎の夢には猛反対するのです。

しかしそんな吉弘を説得したのは、音楽学校に進学後の廉太郎の下宿先でもある、従兄の大吉でした。

音楽の道を反対する父吉弘に対し、大吉は

「人はそれぞれ、与えられた天分を活かすべきだ」

と、廉太郎の音楽の才能を論じ、音楽学校への進学を納得させたといいます。

こうして廉太郎は音楽の道へ進むことを許され、15歳という史上最年少で、東京音楽学校へ入学することになりました。

大吉という心強い味方がいなければ、現代に伝わる数々の名曲は生まれていなかったかも…?

廉太郎にとって彼は生涯、よき理解者であり続けたといいます。

才能の開花

東京音楽学校へ進んだ廉太郎は、特にピアノ演奏の分野で才能を発揮しました。

・小山作之助…「日本音楽教育の父」と名高い音楽教育者

幸田延こうだのぶ…ヨーロッパ留学で演奏技術を身につけたピアニスト

・ラファエル・フォン・ケーベル…ドイツ系ロシア人の音楽教師

といった名立たる面々に師事し、鬼才と呼ばれるほどの演奏技術を身につけていきます。

こうして1898年、19歳のころには音楽学校の本科を首席で卒業

研究部へと進んでからは、教師として授業補助を任されるほどになっていました。

卒業後、注目を集めた作曲センス

このように音楽学校を卒業したころの廉太郎といえば、とにかくピアノの人というイメージ。

そのイメージは、1901年に文部省によって編纂された『中学唱歌』に楽曲が掲載されたことにより、一新されることとなります。

当時は西洋の音楽を取り入れようという風潮から、洋楽に日本語の歌詞を無理矢理当てはめた楽曲が出回っていました。

「リズムが合わず、日本語の意味が通じない」

と、これらが不評だったことから、西洋音楽の要素を取り入れた日本語のオリジナル曲が必要とされ、『中学唱歌』はそのニーズを満たすために出版されるにいたったのです。

この出版において、文部省は作詞を一流の文士に依頼し、作曲はコンペ形式で1人3曲まで応募できる形を取っていました。

廉太郎はこのコンペに以下の3曲を応募。

・「荒城の月」

・「箱根八里」

・「豊太閤」

なんと3曲ともが入選するという快挙を成し遂げるのです。

この出来事をきっかけに、廉太郎はピアノの人から一気に名作曲家へと世間の認識を改めることになりました。

「荒城の月」などは特に

「こんな曲を日本人が作れるわけがない」

と、ヨーロッパの人々に言わしめた逸話もあり、まさに西洋音楽の要素を取り入れた日本の楽曲の先駆けといえます。

ちなみに『中学唱歌』が出版された同年に発表された『幼稚園唱歌』にも、廉太郎の楽曲がいくつも載せられました。

・「鳩ぽっぽ」

・「雪やこんこん」

・「お正月」

・「かちかち山」

ざっと挙げるだけでも、誰もが知るラインナップに驚かされます…。

ドイツへの音楽留学・道半ばで破れた夢

音楽学校卒業後の1901年、その才能を認められた廉太郎は文部留学生に任じられ、さらなる音楽研究のため、ドイツのラプツィヒ音楽院へ留学することとなります。

廉太郎は音楽学校時代の師匠ラファエル・フォン・ケーベルの影響でドイツ音楽に傾倒しており、この留学は兼ねてからの念願が叶った形といえるでしょう。

このラプツィヒ音楽院で廉太郎は対位法など、西洋の音楽技術を新たに身につけていくこととなります。

(※対位法…異なるふたつのメロディを同時に共存させる音楽技術)

ただ、留学からわずか2ヶ月のこと、廉太郎は結核を患い、入院。

現地の病院で治療するも回復の見込みがなく、わずか1年ばかりで泣く泣く帰国を余儀なくされます。

帰国後は父の地元・大分にて療養していましたが、その甲斐もなく、1903年6月29日、廉太郎は23年というあまりにも短すぎる生涯に幕を下ろしました。

この4か月前に作曲された遺作「うらみ」は、夢半ばで病に侵された廉太郎の悲痛な想いが込められたような響きを湛えています。

廉太郎が亡くなった折、結核菌の蔓延を避けるため、多数の譜面が燃やされたという話も。

日の目を浴びなかった名曲がまだまだ隠されていたのかもしれませんね。

作詞家・土井晩翠との出会い

日本への帰国を余儀なくされた折、廉太郎を乗せた「若狭丸」は、ロンドンのテムズ川に5日間停泊。

その期間に「荒城の月」の作詞を手掛けた作詞家・土井晩翠どいばんすいが廉太郎の見舞いに訪れたというエピソードがあります。

このころ晩翠は高校教授を辞任してヨーロッパ遊学をしていた時期だったこともあり、ふたりの出会いが実現するにいたったのです。

皮肉な形ではありますが、国民的名曲を手掛けた天才同士が異国の地で巡り合うというエピソードには、運命的なものを感じさせられますね。

 

きょうのまとめ

23年という瞬く間の生涯に廉太郎が残した楽曲は、34曲。

決して多作とはいえないのに、曲名を聞けば日本国民のほとんどが知っている楽曲が並びます。

活躍した時期を考えると、よくもまあこれだけ短期間に名曲を量産できたものだと、ただただ感心させられますね…。

最後に今回のまとめです。

① 滝廉太郎は幼少期に転校を繰り返し、アコーディオン・ヴァイオリン・オルガン・ピアノ・尺八など、各地でさまざまな楽器の素養を高めていった。

② 音楽学校卒業後、『中学唱歌』の出版によって「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」などの楽曲が注目を浴び、一躍名作曲家の名を手に入れる。

③ 文部留学生となりドイツ留学を実現。しかし結核を患い、わずか1年で帰国し没する。

廉太郎の楽曲はすでに聴き慣れている人も多いでしょう。

その多くは唱歌となっていますが、遺作の「憾」や「メヌエット」のようなピアノ曲もあります。

これらは日本人作曲家によるクラシックピアノ曲では、最初期の作品です。

日本語詞の当てられた唱歌ともまた違い、廉太郎の西洋クラシックの素養をより如実に感じることができますよ。

 
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