真田幸村という名前はみなさん聞いたことがあるでしょう。
戦国時代の最後に、一躍名前を知られるようになったその人は、日本一の強者と呼ばれ、
大坂夏の陣で華々しい最期を迎えています。
真田幸村とはどんな人物だったのでしょうか。
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真田幸村とはどんな人?
- 出身地:信濃国小県郡(現在の長野県上田市の辺り)
- 生年月日:1567年(又は1570年とも言われている)
- 死亡年月日:1615年6月3日
- 大坂夏の陣で家康を追いつめた「日本一の強者」
真田幸村の年表
西暦(年齢)
1567年(1570年説もあり)真田幸村誕生。父真田昌幸、母山手殿、兄信之
1575年(9歳)父昌幸が真田家の当主に
1582年(16歳)武田家が滅亡。織田家に仕えるが本能寺の変で信長死亡。真田家は仕える先を転々とする
1585年(19歳)真田家が上杉家に仕え、幸村は人質として越後国へ
1587年(21歳)真田家は豊臣家に仕え、幸村は大阪城の秀吉の元へ人質に
1594年(28歳)左衛門佐という官職に
1593年(32歳)豊臣秀吉死去
1600年(34歳)
・関ヶ原の戦い(東軍:徳川家康、西軍:石田三成)、真田親子は、兄信之は東軍につき、父・昌幸と幸村は西軍につく(犬伏の密談)
・西軍が負け、昌幸と幸村は高野山に流罪
・九度山で蟄居生活
1611年(45歳)父昌幸が病死
1614年(48歳)大坂冬の陣に参戦
1615年(49歳)大坂夏の陣で戦死
真田幸村の生涯
真田幸村の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
人質としての生活
真田幸村は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
真田家は父、昌幸の考えにより主君を転々と変え、その度に幸村が人質としてそれぞれの主君の元へいくことになりました。
最も長くそして深く付き合うことになる豊臣秀吉への人質は、真田幸村の人生を変えることとなります。
幸村は、豊臣家の重臣石田三成と懇意になり、大谷吉継の娘、竹林院を正室に迎えています。
関ヶ原の戦いが起こり敗北した幸村と昌幸は、高野山へ流罪となり、その後九度山に移りました。
この蟄居の間に、父の昌幸は病死します。
幸村は老僧と語り合ったり、武士として足りない部分を学んだりと毎日を生き生きと生活していました。
大坂の陣
その後徳川と豊臣の関係が悪化し、大坂冬の陣がおきます。
幸村は嫡男の大助とともに大坂城に駆けつけました。
この戦いは、徳川と豊臣が和議を行なったため収まったかのように見えました。
しかし翌年大坂夏の陣が始まり、後藤基次ら有名な豊臣方の武将が次々と討ち死にして行きます。
真田幸村も、命を捨てる覚悟で徳川家康本陣への急襲などを仕掛けますが、
後一歩及ばずついに力尽きてしまいました。
安居神社の松の木に持たれて休息しているところを、敵の西尾宗次に見つかり
といい討ち取られたのでした。
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真田幸村の伝説
真田幸村についてのエピソードを3つご紹介いたします。
当時は真田幸村と名乗っていなかった?
真田幸村として現代に語る注がれているこのヒーローは、実は真田信繁と名乗っていました。
通称は源二郎です。
幸村と名乗ったのは、大坂城に入った以降だと言われていますが、それも正しいかわかりません。
江戸時代に入って書かれた軍記物、『難波戦記』で初めて登場する名前です。
しかし真田幸村としての名前がどんどん人気を白したため、
ついに幸村が安定した名前となりました。
「六文銭」を用いた幸村
真田幸村といえば、「六文銭」です。
六文銭とは仏教から来ていて、死者の三途の渡し賃が六文だからです。
つまり真田幸村は、いつでも命を捨てる覚悟で戦に臨んでいたということです。
戦国の世に生きた人たちは戦で死ぬことが誇りでした。
ですから皆同じように命がけだったでしょう。
しかし幸村は、あえて六文銭を用いることで、自分にも、敵にもその覚悟を見せつけたかったのではないでしょうか。
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幸村は大坂夏の陣では死んでいなかった?
幸村が死んだとされる大坂夏の陣のとき、徳川家康の前に幸村の首だというものが多数並べられたました。
その中に本当の幸村の首はあったのでしょうか。
実は幸村は大助とともに、
「豊臣秀頼を伴って鹿児島に逃げ落ちた」という話があります。
その後は、奥州へ向かい大助とともに商いをして商家として暮らしたというのです。
事実大館市には、真田幸村、大助親子の墓も残っています。
史実では、大阪夏の陣で死んだことになっている幸村ですが、
生き延びていたことは全く考えられない話ではないのかもしれません。
きょうのまとめ
戦国の世を風のように生き抜いたヒーロー、真田幸村。
簡単にまとめます。
① 若い頃は人質生活ばかりで苦労も多かった
② 大坂夏の陣で家康を追いつめた「日本一の強者」
③ 大坂の陣で「儂の首を手柄にされよ。」を最期の言葉として討ち取られる
長い人実生活を全て自分の生きる力に変え強い意思と心を持った立派な武将になりました。
義に厚く、徳川にいくら恩賞をちらつかされても豊臣を裏切らなかった意思の固さは見事です。
普段は穏やかで優しい人柄だったそうですが、
大坂夏の陣で徳川の本陣に突っ込んだ気迫は全て義に忠実だったがゆえのことでしょう。
真田幸村が徳川家康の首をとっていたら、誰が天下を取り、どんな世の中になっていたでしょうか?
歴史好きとしては、とても興味深いところです。
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