与謝野晶子の名言|明治の女性に勇気を与えた言葉たち

 

明治の文学界において、女性としての感情を全面に押し出した、それまでにない作風で旋風を巻き起こした

与謝野晶子

また彼女は女流作家として台頭しただけでなく、日本の男女の在り方への主張を続け、日本人の価値観を変える一旦を担った人でもあります。

今回注目するのは、そんな明治の文学史と日本の風潮に影響を与えた彼女が、どんな価値観をもった人だったかです。

彼女の名言を辿ることで、その人物像に迫っていきましょう。その力強い生き方から学べることはたくさんあるはずです。

 

才能を磨く行動が表れた名言

与謝野晶子

与謝野晶子
出典:Wikipedia

特別に女子のためとして作られた書物は

晶子
特別に女子のためとして作られた書物は、全て女子を低能児たらしめる劣等の書である

晶子が幼少を過ごした明治初期は、女性の社会進出など想像もできないような時代です。

家にいて家族の面倒を見ることだけが役目とされていたので、女性が学問をたしなむことは稀なことでした。

この名言はそんな時代背景への晶子の疑問を表したものだと取れます。

彼女は当時の女性としては珍しく、9歳から漢学塾へ通い、朱子学や儒学を学び、女学院時代は『源氏物語』などの古典をはじめ、尾崎紅葉や樋口一葉など、当時の文豪の作品にも精通していました。

このように自ら進んで学問を学ぼうとした晶子は、周りの女性たちに関しても「もっと男性と同じように学ぶことができれば、可能性を伸ばせるのに」と感じていたのでしょう。

才能のある人の間で

与謝野晶子
才能のある人の間で猛烈な競争をかいくぐってきたたくましさがないと、大きな試合では勝てない

「経験が伴わない知識にそれほどの価値はない」ということが、この名言には込められていると感じます。

知識は一線で活躍する人のなかで発揮しようとして初めて磨かれていくものだと、晶子は言いたかったのでしょう。

女学校を卒業後、実家の和菓子屋を手伝いながら和歌の執筆に勤しんだ晶子は、文芸誌に作品を投稿するようになります。

また女性でありながら青年文学会にも参加。”青年”とされていることからも、当時は文学が男性のものと捉えられていたことがわかります。

晶子はそんな常識などもろともせず、男性陣が切磋琢磨する世界に飛び込んでいったアグレッシブな女性だったのです。

私は青春の日の愛に目覚めたのです

晶子
私は青春の日の愛に目覚めたのです。そうして少しずつ情熱の中に人間と自然を読むことを覚えました

多くの人が青春時代に恋人を作り、やがて結婚していくように、恋愛は人生の大半を担うもの。

また人を好きになるとほかのことが手につかなくなるように、恋愛は人の感情に特に強く訴えかけるものです。

そんな恋愛が才能を開花させる後押しになることだって、当然あります。

晶子は自身が名を挙げるきっかけとなる文芸誌『明星』の創立者である夫・鉄幹と歌会で出会うと激しい恋に堕ち、彼が妻子もちであるにも関わらず、半ば家出のような形で鉄幹の暮らす東京へと向かいました。

不倫の背徳感に屈さず、自らの感情のおもむくままに動いた晶子の思惑は、以下の名言によく表れています。

晶子
若さの前に不可能もなければ、陰影もない、それは一切を突破する力であり、一切を明るくする太陽である

彼女のいう”若さ”とはきっと、自分の感情にいかに素直になれるかです。

感情に正面から向き合った晶子は、鉄幹と一緒になることで両親との仲が悪化しようと、周りから後ろ指を指されようと、気にはしなかったのでしょう。

その心意気は1901年に発表された『みだれ髪』の、女性の官能的な部分を描いた大胆な作風にも表れています。

明治の保守的な風潮にはそぐわず、物議をかもした側面もありましたが、晶子はこの作品で一気に知名度を広めました。

その背景に鉄幹との愛は必要不可欠。彼女の才能はまさに恋愛あってこそのものだったといえます。

 

夫を支える日々で感じていたことは?

厭々する労働はかえって人を老衰に導くが

晶子
厭々する労働はかえって人を老衰に導くが、自己の生命の表現として自主的にする労働は、その生命を健康にする

同じ仕事量をこなしていても、疲れた表情をしている人と、常にエネルギッシュに見える人がいます。

これは体力うんぬんではなく、自分がやりたくて自主的に行っているかどうか

以上はそんなことを物語る名言です。

晶子は1901年に鉄幹と結婚しましたが、その生活を支えていたのは、実のところ夫・鉄幹ではなく、妻の晶子でした。

斬新な作品で名を挙げていく晶子に対し、同じ歌人である鉄幹の収入は振わなかったのです。

そのため晶子は11人もの子どもたちの面倒を見るかたわら、来るもの拒まずで作家としての仕事を請け、その生活は文字通り激務でした。

ほとんどの人なら夫に対し、夢ばかり追い掛けずに、少しは働いてもらいたいと思うところですが、晶子には自分が文学を志すのと同じように、鉄幹の活動も応援したい想いがあったのです。

だからどんなに生活が苦しくても、収入が自分頼みでも「それは自分が選んだことだ」とエネルギッシュに日々を過ごすことができたのでしょう。

それどころか晶子は、スランプに陥った鉄幹に対し、原稿料の前借りなどで渡航費を工面し、「ヨーロッパで感性を磨いてくればいい」と後押ししています。

それは夫の才能をどこまでも信じていたのと同時に、以下のような彼女のポリシーからくる行動でしょう。

晶子
人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい

何かひとつ飛び抜けた才能があれば、ほかはからっきしダメだっていい。

この想いがあったからこそ晶子は収入のない夫を支え、彼が夢を追うことに賛同し続け、自身も輝き続けられたのです。

 

きょうのまとめ

与謝野晶子の名言にはそれぞれ、「女性は家を守るのが仕事」とされていた当時において、その風潮に負けずに主張していく芯の強さが表れていました。

周りに流されないその姿は、不倫という後ろめたい出来事さえもプラスのイメージに変えてしまうほど。

当時多くの女性たちが彼女に憧れたことは想像に容易いですね。

最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。

① 晶子は女性が学問を志すことが一般的でない明治において、文学に精通し、男性陣がしのぎを削る業界にも臆せず飛び込んだ

② 晶子の才能を開花させたのは、夫・鉄幹との燃えるような恋愛

③ 収入の安定しない鉄幹を支えるために激務の日々を過ごした晶子だったが、「自分が選んだ道だ」と、不満は見せなかった

彼女のその生き様からは一貫して「信念を貫くこと」を学べます。

与謝野晶子の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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