坂口安吾は確かに偉大な文筆家でした。
しかし、作品やスタイルを考えると、安吾は「文豪」と呼ばれるタイプとも違うようです。
さて、坂口安吾とは一体どんな人物だったのでしょうか。
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坂口安吾はどんな人?
- 出身地:新潟県新潟市
- 生年月日:1906年10月20日
- 死亡年月日:1955年2月17日(享年50歳、満48歳)
- 狂気、デカダン、気まぐれが混じった不思議な人物。薬物中毒に苦しみながら純文学、歴史小説、推理小説、随筆、評論など多彩な執筆活動をした、近現代日本文学を代表する無頼派作家。
坂口安吾 年表
西暦(年齢)
1906年(1歳)衆議院議員の父・坂口仁一郎、母・アサの5男、13人兄妹の12番目として誕生
1923年(18歳)関東大震災。父・仁18一郎が死去
1925年(20歳)代用教員として荏原尋常高等小学校に務める。この頃より「安吾」を名乗る
1926年(21歳)代用教員を辞め、東洋大学印度哲学倫理学科第二科に入学。交通事故に遭い、その後遺症や猛勉強のために神経衰弱となる
1930年(25歳)東洋大学卒業後、アテネ・フランセ高等科にて20世紀フランス文学を学ぶ。アテネ・フランセの友人たちと同人誌『言葉』を創刊
1931年(26歳)処女小説『木枯の酒倉から』を『言葉』第2号に発表
1944年(39歳)徴兵逃れのために日本映画社の嘱託となる
1946年(41歳)4月『新潮』に評論『堕落論』、6月同誌に『白痴』を発表して一躍人気作家となる
1947年(42歳)太宰治、織田作之助、石川淳らとともに「新戯作派」「無頼派」と呼ばれ、時代の寵児となる。推理小説『不連続殺人事件』、短編『桜の森の満開の下』を発表
1948年(43歳)ヒロポン、アドルムなど薬物の大量服用で東京大学医学部付属病院神経科に入院
1949年(44歳)この年より1954年まで芥川賞選考委員を務める
1951年(46歳)税金滞納により国税局に家財や蔵書、原稿料が差し押さえとなる
1953年(48歳)鬱病が再発。薬の服用で錯乱状態となる。長男(綱男)誕生
1955年(50歳)桐生市の自宅で脳出血により死去
坂口安吾の生涯
小説家・坂口安吾は囲碁棋士の坂口仙得の末裔という旧家の出身でした。
もともと富豪だった家ですが、祖父の投機の失敗で明治以降に没落しています。
それでも安吾誕生の頃の520坪もある、広大な敷地に建つ家は大きな邸宅だったそうです。
成績優秀な小学生から落伍者への憧れ
1906年に新潟市で憲政本党所属の衆議院議員の父・坂口仁一郎と母・アサとの間の13人兄妹の12番目の5男として誕生。
安吾は筆名であり、本名は炳五です。
幼少時は、ガキ大将でありながら、成績は大変優秀な小学生でした。
中学になって視力が落ちても、家が貧しいせいで眼鏡を買ってもらえず、学力が低下。
そんな事情を恥じて学校へ行かなくなり、後に落第を経験して東京の私立豊山中学校へ編入しました。
この頃から宗教や文学に目覚めて落伍者に憧れ、反抗的な態度を見せたりもしました。
・バルザック
・芥川龍之介
・エドガー・アラン・ポー
・シャルル・ボードレール
・アントン・チェーホフ
などを愛読。
同時に、編入した先の中学では運動に熱中し、相撲大会やハイジャンプなどで活躍しました。
この頃には「安吾」という筆名を用いて短歌作りも始めています。
代用教員から大学生、作家へ
1923年9月、関東大震災が起き、11月に父が病没します。
一時は父の借金返済のため代用教員となりました。
のち東洋大学印度哲学倫理学科第二科に入学。
しかし、大学正門前で車にはねられ、頭蓋骨に亀裂ができる大けがを負いました。
その後遺症で、被害妄想に苦しみ、それを忘れるように睡眠時間わずか4時間で猛勉強をしたことで、却って心身共に疲弊していきます。
1927年の芥川龍之介の自殺も安吾の神経衰弱を悪化させました。
しかし、哲学書を読み、アテネ・フランセでのフランス語の勉強をする中で交友の幅を広げます。
友人と読書会を実施し、大学卒業後には歌舞伎や寄席、音楽などに関心を持つ中で、小説家への夢を固めていきました。
1930年の11月、アテネ・フランセの友人たちと同人雑誌『言葉』を刊行し、その第2号にはナンセンス的処女作『木枯らしの酒倉から』を発表。
その後、新進のファルス(笑劇/喜劇)作家として注目されるようになりました。
しかし、安吾のそれからの作品は、彼の交友関係に左右されるものも多く、
・女流作家・矢田津世子との恋と絶縁
・友人の死
などに影響されています。
1938年6月には、可愛がっていた姪の村山喜久が自殺し、7月に刊行した矢田との恋愛をテーマにした長編小説『吹雪物語』が失敗作と評され、安吾は失意に陥ります。
しかし、切支丹を題材にした歴史小説『イノチガケ』を発表するなど作品の幅を広げました。
『堕落論』で人気作家に、そしてクスリ
戦時中は、徴兵逃れのために国策宣伝映画やニュース映画を制作した日本映画社の嘱託となり、1945年4月には召集令状を受けても応召しませんでした。
そして終戦後、1946年に『新潮』において評論『堕落論』を発表。
続いて発表された『白痴』と共に、戦時中の倫理感と「堕落」についての考察が世間に与えた反響は大きく、安吾は、一躍人気作家の仲間入りをしました。
しかし、安吾は実は大量のヒロポン(覚醒剤)を服用して4日間一睡もしないなどの無茶を続けながら執筆を続けていたのです。
1948年には梶三千代と結婚(正式な婚姻届は1953年)。
しかし、覚醒剤や睡眠薬を大量に服用していた安吾は、中毒による狂乱、幻視、神経衰弱のせいで1949年に東大病院の神経科に入院。
2ヶ月で自主退院しますが、その後も精神は不安定であり、税金滞納問題で不家財や蔵書、原稿料が差し押さえ処分に。
再度覚醒剤に手を出すなどしています。
1953年8月の長男誕生時は、安吾に落ち着きを与えたようでしたが、1955年2月17日の早朝、自宅にて脳出血で亡くなってしまいました。
安吾の破天荒エピソード
カレーライス100人前事件
安吾が一時期檀一雄の自宅に身を寄せていた頃、突然妻の三千代にライスカレーを100人前注文するよう命じます。
驚く夫人でしたが、頑固に命じるだけの安吾に、仕方なく彼女は近所のそば屋にカレーを100人前注文。
結局、来たのは20人から30人前分だけでしたが、安吾は次々と並べられていくカレーを、庭の芝生の上で胡坐をかいて食べていたそうです。
その奇行の理由は、本人が語らず謎のまま。
わけがわかりません。
超絶に汚い安吾の部屋
安吾はとんでもなく汚い部屋で原稿を書いていました。
進駐軍が殺虫剤のD・D・T(戦後直後、衛生状況の悪い時代にアメリカ軍が持ち込み、シラミなどの防疫対策として使用)を散布した後も、2年間は万年床を放置していたそうです。
掃除をしない理由は彼曰く、
だとか。
安吾は写真嫌いだったのですが、ある日彼を騙すようにして写真家・林忠彦が部屋を撮影し、世間に汚部屋を暴露してしまいました。
坂口安吾のゆかりの地
大安寺 名前のない安吾の墓
生前より葬式は退屈で不要なのだから
と語った安吾。
故郷の新潟市大安寺の坂口家墓所に葬られましたが、墓には安吾の名も戒名もありません。
<大安寺:新潟県新潟市秋葉区大安寺>
安吾の文学碑
1957年、新潟市寄居浜の砂丘の松林に「ふるさとは語ることなし」の詩碑が尾崎士郎、檀一雄らが発起人となって建立されました。
と述べた安吾が眠るに相応しいロケーションです。
<坂口安吾文学碑 護国神社:新潟県新潟市中央区西船見町5932-300>
きょうのまとめ
今回は近現代日本文学を代表する小説家・評論家の坂口安吾をご紹介しました。
坂口安吾とは、
① 純文学、歴史小説、推理小説、随筆、評論など広範な題材を扱った文筆家
② 『堕落論』『白痴』によって時代の寵児となった無頼派作家
③ デカダンと真面目さの中に精神的不安定さを抱え、クスリの中毒症状に苦しみながらも執筆意欲を絶やさなかった人物
でした。
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