西郷頼母とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末期の会津藩家老・西郷頼母さいごうたのも

2013年の大河ドラマ『八重の桜』では、西田敏行さんが演じたことでも注目されたこの人物。

動乱に揺れる会津藩にて、藩士たちと幾度となく対立を繰り返した頑固者です。

「どうしてそこまで…?」と取られるほど偏屈な行動から、謎の人物とされることも多い頼母。

反面、藩主・松平容保まつだいらかたもりとの絆は強く、その関係は生涯に渡って続いていきました。

西郷頼母とは、いったいどんな人物だったのでしょう?
 

西郷頼母はどんな人?

プロフィール
西郷近悳 / 西郷頼母

西郷近悳 / 西郷頼母
出典:Wikipedia

  • 出身地:陸奥国むつのくに会津郡若松(現・福島県会津若松市)
  • 生年月日:1830年5月16日
  • 死亡年月日:1903年4月28日(享年74歳)
  • 幕末の会津藩家老。藩主・松平容保の京都守護職就任に反対、戊辰戦争で新政府への恭順を断固主張するなどして、藩内で対立を繰り返した。

 

西郷頼母 年表

年表

西暦(年齢)

1830年(1歳)会津藩家老・西郷近思ちかもとの長男として生まれる。

1862年(33歳)西郷家の家督を継ぎ、会津藩家老となる。

1864年(35歳)藩主・松平容保の京都守護職就任に反対。藩士たちに京都からの帰国を説くなど否定的な姿勢を見せ、家老職を解任される。

1868年(39歳)戊辰戦争の勃発により、家老職に復帰する。会津戦争を戦ったのち、藩主の命で逃げ延び、箱館で新政府に降伏。館林藩預けとなった。

1870年(41歳)本姓の保科ほしな頼母に改姓する。

1872年(43歳)赦免となる。伊豆に移り、依田佐二平の謹申学舎塾にて塾長を務めた。

1875年(46歳)福島県の都都古別つつこわけ神社の宮司となる。

1879年(50歳)長男吉十郎が病没。養子に志田四郎を迎える。

1880年(51歳)旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となり、頼母が禰宜ねぎ(補佐役)を務める。

1887年(58歳)大同団結運動に参加し、衆議院議員を目指す。

1889年(60歳)大同団結運動が行き詰まり帰郷。福島県の霊山りょうざん神社で神職を務める。

1903年(74歳)故郷の会津若松にて死没。

 

西郷頼母の生涯

以下より西郷頼母の生涯にまつわるエピソードを辿ります!

会津藩家老の家系に生まれる

1830年、西郷頼母は会津藩家老・西郷近思ちかもとの長男として生まれます。

江戸時代は、生まれで身分がほぼ決まってしまう門閥制度が色濃い時代。

幕末にかけ、才能のある下級武士が幕臣に取り立てられるなど、その風潮は移ろいつつありました。

しかし会津藩はそんななかでも門閥制度に厳格であり続け、頼母も

「成らぬ者は成らぬ」

という教えのもと、育っていったといいます。

幼少は溝口派一刀流の剣術を修めたほか、甲州流軍学、大東流合気柔術など、甲斐武田氏由来の兵法や武術に傾倒していました。

漢学にも長けており、由緒正しい家系に恥じない文武両道の青少年だったようです。

家老職に就任するも…

1862年、頼母は隠居した父に代わって会津藩家老に就任します。

ここからの動向がまた、一癖も二癖もあって…

・藩に西洋銃の導入を進言した山本覚馬に、1年間の謹慎刑を言い渡す

・「八月十八日の政変」で、攘夷派追放の中核を担った秋月悌次郎を蝦夷地えぞちへ左遷する

など、能力のある藩士を相次いで排したという話。

これは頼母が急激な改革を嫌ったためでしたが、根底には幼少より刷り込まれた門閥意識があるとされています。

というのも、山本、秋月は揃って下級武士でした。

頼母
下級武士の身分で藩政に口を出すべきではない!

のような思惑があったのかもしれませんね。

さらに、藩主・松平容保が京都守護職に就任する際には、政争に巻き込まれる危険性があるとして、断固として反対。

容保の怒りを買ってもなお意見を変えず、藩士たちに帰郷を説くなど強固な姿勢を見せ、挙句は家老職を解任されてしまいます。

なぜそこまでして反対し続けたのか…。

その動向からは、とにかく旧来の藩のスタイルを崩すべきではないという、頑ななまでの意志が垣間見えます。

戊辰戦争で復帰

徳川慶喜

1864年から謹慎の身となっていた頼母ですが、1868年、戊辰戦争が勃発するとその手腕を必要とされ、再度家老職に就くこととなります。

会津藩は当初、将軍・徳川慶喜に従い、新政府に降伏する方向で意見が固まっていました。

しかし、新政府は降伏の条件として藩主・容保をはじめ、重役の処刑を提示したため、抗戦へと転じることに。

頼母は会津戦争で白河口総督を任され奮戦するものの、新政府軍の猛攻で白河城、棚倉城が陥落。

若松城へ帰参すると、城下を取り囲まれている戦況から降伏を主張し、これによってその他重役との対立が生まれてしまいます。

このあと、頼母は長男吉十郎を連れて会津を脱出します。

これは以下の理由から、頼母が藩での立場を危うくすることを懸念した容保の配慮だったと推察されています。

・越後口を任されていた家老・萱野長修かやのながはるへの伝令という体で若松城を抜け出した

・脱走を疑われ追手が差し向けられたものの、見逃されている

また、頼母が会津戦争に身を投じるなか、

「足でまといになるわけにはいかない」

と、西郷家が一家21人で集団自決した逸話も有名です。

その後、蝦夷地へと渡った頼母は、榎本武揚えのもとたけあき土方歳三ひじかたとしぞうらとともに箱館戦争を戦うも、この地で降伏。

上野国館林藩にその身を預かられることとなりました。

明治以降の動向

頼母がまだ幽閉中の身にあった1871年のこと、米沢藩士・雲井龍雄が

「旧幕臣に帰順の道を!」

と政府へ抗議し、斬首刑に処される事件が勃発。

このとき、雲井との関与を疑われた頼母が、縁戚関係の西郷隆盛に助けを求めたという話があります。

このような危機を迎えながらも1872年には赦免。

同年、伊豆の謹申学舎塾に、塾長として赴任することになります。

謹申学舎塾は、伊豆市西豆さいず村一帯の子弟教育のため、周辺の名主たちの協力のもと開校した学校。

頼母は主に漢学の講義を担当していました。

しかし公立小学校開校などの事情から、同塾は1874年に閉校。

以降、頼母は

都都古別つつこわけ神社(福島)

霊山りょうざん神社(福島)

・日光東照宮(栃木)

などで神職を務めつつ、晩年を過ごしていきます。

特に日光東照宮では、宮司となった旧藩主・松平容保を補佐する禰宜ねぎの役を担いました。

両者の縁の深さを見ると、会津戦争で容保が頼母に逃げるよう命じた説も信憑性のある話に思えてきますね。

また、1887年からは旧自由党、立憲改進党の面々が決起し、政治体制の一新を企てる大同団結運動が勃発。

頼母もこれを機に衆議院議員を目指そうと奮起しますが、上層部の人事操作で各勢力が排され、運動自体が瓦解。

結局、再度表舞台に立つことはありませんでした。
 

きょうのまとめ

幕末の会津藩において、断じて保守派であり続けた西郷頼母。

多くの場合、その動向の真意は謎とされていますが、よくよく見てみると終始行動が一貫していて、考えに揺るぎがないことがわかります。

最後に今回のまとめ。

① 西郷頼母は会津藩家老のなかでも特に厳格な門閥主義者だった。そのため有能な下級武士を排したり、藩主の京都守護職就任に反対したり、藩の多数派と対立する行動がたびたび見られた。

② 戊辰戦争の渦中でも、断固として降伏を主張し続けたため、抗戦派の藩士らと対立。立場が危うくなり、藩主の命で会津から脱出したとされている。

③ 明治維新後は、地元の神社などで神職を務めた。日光東照宮では、宮司となった主君・松平容保とも再会。その補佐を任されている。

松平容保が頼母に信頼を寄せたのは、何が起ころうとも態度を変えない筋の通った人となりゆえではないでしょうか。

 
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