西郷頼母の家系図と子孫|西郷隆盛との関係は?伝説の柔道家も…

 

幕末の時代、会津藩筆頭家老を務めた

西郷頼母さいごうたのも

藩主・松平容保かたもりの京都守護職就任に強固に反対し、家老職を解かれる

戊辰戦争では藩士がそろって抗戦を主張するなか、恭順を主張し、立場を危うくする…

などなど、その動向に多くの謎を残す人物です。

そんな頼母の家系図を辿ってみると、それはもう逸話の宝庫。

幕末の志士・西郷隆盛とも関係があったり…?
 

西郷頼母の家系図・子孫

西郷近悳 / 西郷頼母

西郷近悳 / 西郷頼母
出典:Wikipedia

以下が西郷頼母の家系図です。

西郷頼母の系図

西郷頼母は、妻千重子とのあいだに2男5女の子息を儲けていました。

しかし、次男の五郎は幼くして亡くなり、妻と5人の娘たちは戊辰戦争の渦中で自刃。

頼母と長男・吉十郎は、旧幕府軍に順じ、函館戦争まで戦ったのち、新政府に降伏しました。

こうして一家のうちふたりだけが明治期まで生き延びるのですが、1879年、吉十郎は21歳の若さで病没。

そのため頼母は養嗣子に志田四郎、晩年にはもうひとり、保科近一を養子に迎えています。

ちなみに保科というのは、会津松平家のこと。

西郷家が保科家の分家であるため、明治以降、頼母は保科姓へと改姓しているのです。

非業の死を遂げた妻と娘たち

戊辰戦争の折、会津藩は藩主・松平容保の意向に従い、新政府に降伏・恭順の意志を見せていました。

しかし新政府は降伏の条件として、重臣一同に切腹を命じたため、会津藩は抗戦へと主張を一変させます。

頼母は白河口の守備を任されていましたが、政府軍の猛攻により、城下が取り囲まれる事態に。

頼母は長男・吉十郎とともに若松城へ登城することとなり、このふたりを見送ったあと、妻千重子が家族に向かってこう言うのです。

「子連れでは主人の足手まといになりかねない。ここで自刃することが国に殉じることだ」

この意志のもと、頼母の妻子はもちろん、同居していた親族を合わせ総勢21名が集団自決することとなります。

のちに西郷家に踏み入った政府軍の兵があまりの光景に戦慄していると、まだ息のあった長女・細布子たえこがこう尋ねてきました。

「あなたは敵ですか?味方ですか?」

せめて安心して死なせてあげたいと考えた男は、

「味方だ」

と、一言伝え、細布子を介錯したといいます。

江戸時代、由緒ある家系の妻子たちは、たとえ女性であっても武士の誇りを心得ていたのだな…と感じさせられる逸話です。

養嗣子・西郷四郎

1879年、西郷頼母は会津藩士・志田貞二郎の三男・四郎を養子に迎えます。

この四郎という人物は小説『姿三四郎』のモデルとなった柔道家。

1882年に創設された柔道の総本山・講道館で、創始者の嘉納治五郎かのうじごろうに師事し、講道館四天王と呼ばれた達人です。

151センチ、53キロと小柄ながら、俊敏な動きで大技の「山嵐」を展開し、大男を容易く投げ飛ばした逸話が残されています。

頼母が四郎を養子に迎えようと考えたのは、その武道の才能から。

頼母は会津藩に伝わる一子相伝の武術・大東流合気柔術(のちの合気道に派生)の継承者で、自身の跡取りを探していたのです。

四郎が無敵の強さを誇ったのは、頼母から教わった柔術の心得があったからだともいいます。

しかし、1890年、四郎は突如として失踪

師匠の嘉納治五郎が欧米視察に行くあいだの留守を任されながら、その任を放棄していなくなってしまったのです。

これは政府が朝鮮や中国方面へ開拓を進めていた時勢から、自身もその渦中へ身を投じたいという夢を追ってのことだったといいます。

大東流、講道館の両方から後継者として望まれたことが重荷になったという説も…。

いずれにしても、この失踪から四郎はより神秘的な存在となり、小説の主人公になるまでにいたったのです。

ちなみに晩年は長崎へ移り住み『東洋日の出新聞』の編集長を務めるかたわら、柔道や日本泳法などの後進指導にあたりました。
 

西郷隆盛との関係

幕末の人物で西郷といえば、一番に思い浮かぶのが薩摩藩の英傑・西郷隆盛です。

同じ苗字なので何か関係があるかと思いきや、案の定、頼母と隆盛は家系図上でつながっています。

西郷頼母と西郷隆盛は遠い親戚?


西郷頼母と西郷隆盛は遠い親戚の関係。

両者とも、平安時代末期、肥後国(熊本県)に土着し、室町時代まで同国の守護を務めた菊池氏に行き着きます。

菊池宗家はこの時代に滅んでいるものの、子孫である西郷家はそれぞれ生き残り、薩摩と三河国へ。

このうち三河へ移った西郷家が頼母の先祖にあたります。

西郷家は三河で松平家の家臣となり、徳川家康に仕える身となりました。

こうして江戸時代には、徳川家の親藩である会津藩の家老職へと落ち着くのです。

一方、隆盛は薩摩藩の下級武士ですから、先祖は同じでも家格にけっこうな差が付いたものですね。

頼母と隆盛には密接な交友があった?

頼母と隆盛には、実際にも少なからず交友があったようです。

明治期に入り、頼母が福島県の都都古別つつこわけ神社の宮司を務めていた折、1877年に西南戦争が勃発。

隆盛が反乱士族を率い、政府へ反旗を翻しました。

このとき、頼母と隆盛は手紙でやり取りをしていたといい、政府への謀反を疑われた頼母が宮司を解雇されたと、自著『栖雲記せいうんき』にて語っています。

いくら同族とはいえ、この時期から急に交友を始めたとは考えにくく、実は戊辰戦争のころから関わりがあったのでは?という説があるのです。

戊辰戦争が勃発した際、頼母はやむを得ず政府に抗戦することになりましたが、その実、藩内では一貫して降伏を訴えていました。

隆盛は戊辰戦争中、捕えられた会津藩士を通して、頼母に降伏の意志があることを聞き及んだといいます。

そして、このあと頼母が会津を脱出し、無事に蝦夷地えぞちへと渡れたのは、隆盛の手引きがあったからではないかというのです。

頼母に降伏の意志があったとしても、その立場上、易々とは事が運びません。

この状況を鑑み、隆盛は

隆盛
今はとにかく逃げ延びて身を隠せ

と促したのでしょう。

新政府への降伏後も、ほかの会津藩家老が斬首に問われるなか、頼母の命が助かったのは、隆盛の計らいだったといわれています。

明治期に入って、長男・吉十郎がアメリカ留学をする際には、隆盛が援助を買って出たという話もあったり…。

決定的な史料こそないものの、頼母と隆盛はかなり親密な関係であったことが推察されているのです。
 

きょうのまとめ

妻子が集団自決をしていたり、養嗣子が伝説的な柔道家だったり、

西郷頼母の家系を巡っては、やはりその逸話の多さに驚かされます。

最後に今回のまとめ。

① 西郷頼母の妻、子女は戊辰戦争に際し、「足手まといになりたくない」という理由で集団自決した。生き残った長男も21歳で早逝している。

② 頼母が養子に迎えた西郷四郎は、小説『姿三四郎』のモデルになった柔道の達人。大東流合気柔術、講道館の後継者と目されたが、どちらも継がず失踪する。

③ 西郷頼母、西郷隆盛は、肥後菊池氏を祖とする遠い親戚。戊辰戦争以降、両者には交友があったと考えられる。

真偽は定かでないものの、頼母と交友のあった西郷隆盛の情の深さも再認識させられましたね。

 
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