救民の英雄、大塩平八郎の誠をつらぬく名言集!「身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるなり」

 

あまりに多くの人々が日常に飢え倒れ、

それらを意に介することのない人々の欲望は際限もなく、

世に不正がまかり通り、はびこり、栄えておりました。

そこに降り立った一つの旗は

「救民」。

ある不遜(ふそん)なる男の人となりとその乱の推移をその名言とともにふり返ってまいりましょう。

大塩平八郎

 

自身に眠る誠心誠意を重んじた名言集!

「友人になりたいと思った相手に対して、なんらかの邪心を抱いているならば、親しくすべきではない」

「山中の賊(ぞく)に克(か)つことは易しく心中の賊に克つことは難し」

「自分自身の本性をあざむいて勝手に自己満足していても、いずれ人様に見抜かれてしまう。正義と私利、誠と偽り(いつわり)の境目をごまかして過ごしてはならない」

大塩は自分にも、他人にも、”大変に厳しい人”だったようです。

無視して話せないのがその思想基盤。

大塩は儒学の一種

“陽明学”

を信奉しておりました。

当時、
幕府から奨励され、隆盛を極めていた

“朱子学”

権威や序列というものを重んじる傾向がありました。

しかし、
この”陽明学”というのは

心即理

といって、

感情に表れるものを大事にし、

それを、

知行合一

といって

理論だけでなく行動に移さなければ意味がない

と唱えておりました。

大塩の厳しさとリンクさせて想像してみてください。

ですので、
吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河合継之助、佐久間象山、……。

この影響を多大に受けた人に、

ある一定の傾向がうかがえます。

心即理

とは、

すでに”心”の完成度が高い状況なら非常に素晴らしい思想ですが、

そうでないなら、

非常に危険となりかねません。

 

「身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるなり」

さあ、大塩は”行動”に移し始めます。

まず、
家の財産を売却

家族と離縁

爆薬や大砲まで準備いたしました。

門人とは軍事訓練。

近くの村々には”檄文”を回し、

支度金まで用意して同伴者を募りました。

この”檄文(げきぶん)”というのが非常に痛快で、

当時の腐敗しきった権力者などの醜態(しゅうたい)を実に的確に暴き立ててはこきおろし、

それでいて度重なる様々な災いによって苦しみあえいでいる庶民の実情、

さらにはその確かな教養と知性に裏打ちされたいろんな道理を持ち出して、

力強くも切々と書き上げております。

乱後もこれがさらなる波紋となって世間に広がりゆくのですが……。

 

大塩の乱最初のターゲットは跡部良弼

大塩の計画とは公務上にあいさつに出てくる大坂東町奉行の”跡部良弼(あとべよしすけ)”をまず襲撃し、爆死させます。

この跡部という男はその重い役職にありながら、

庶民の困窮をことごとく無視し、

お上の都合
自分や親族の都合
を「そこまでか!?」というぐらいごり押しした人物として知られております。

大塩の度重なる諫言(かんげん。やめるように説得すること)をはねつけ続けるどころか、

大塩の庶民への個人的善意やその義援計画すらもにぎりつぶしました。

 

大塩の乱ついに勃発

しかし、
この目論見は大坂奉行所側に事前に内部通報されてしまいます。

大塩らは仕方なく、

ついに

自分の家に火を放ち、

「救民」

の旗を高々と掲げ挙げ、立ち上がります。

人々の大変な困窮にあってなお、
暴利をむさぼろうとした人や、
義援をなき者にしようとした人、
などの家々を中心に放火し、

大砲を打ち鳴らし、

300人ほどの人々がそれに呼応して、

行動をともにしました。

しかし、
多勢に無勢

火はいたずらに燃え広がるばかりで大坂の5分の1を焼き(「大塩焼け」と言われます)、

乱そのものはわずか半日にして鎮圧されてしまいました。

大塩平八郎、壮烈なる最期(さいご)!

一方で、
大塩は江戸に対して建議書を送っております。

当時、幕閣や大名など金権不正が当たり前にはびこっておりましたから、

それを告発し、
体制の一新
を願ったようです。

大塩はもはやその一すじの希望に賭けていたのでしょうか。

乱鎮圧後もある商家にかくまわれておりましたが、

ついに発覚し、

探索方の押しかけてきたところで自身の隠れ家に火を放ち、爆薬を打ち付けて、養子格之介とともに壮烈な爆死をとげました。

 

きょうのまとめ

大塩の乱への動機は一方で
いくら意見しても聞き入れてくれない跡部らへの個人的うらみがあったのではないか、
という説があります。

そもそも跡部の赴任以前は
大坂西町奉行の矢部定謙(やべさだのり。後の遠山金さんの相棒)らの理解があって、その意見は重く用いられていたようですし、

大塩自身
とにかく強情な人柄だったようなので、

可能性として捨て去ることはできません。

① 大塩平八郎の名言からは、自分にも他人にも厳しく、どこまでも誠心誠意をつらぬこうとした人柄がしのばれる

② 大塩平八郎は吉田松陰、河合継之助ら同様”陽明学”の影響をたくさん受けていた

③ 大塩平八郎は最後商家にかくまわれていたところを見つかり、爆死した

大塩の乱にかかわるさらなる発見や研究結果がまだまだ待たれます!

 

関連記事 >>>> 「大塩平八郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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