大塩平八郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

徳川200年の太平をやぶり

兵乱を起こした大塩平八郎おおしおへいはちろう

その旗印は「救民」です。

何が時代のターニングポイントとなったのか。

そしてその旗頭となったのはどういった人物だったのでしょうか。

今、変わり目といわれる時代に生きる私たちはそれらをどうとらえればよいのでしょうか。

 

大塩平八郎はどんな人?

プロフィール
大塩平八郎

出典:Wikipedia

  • 出身地:大坂(今の大阪市)
  • 生年月日:1793年3月4日
  • 死亡年月日:1837年5月1日(享年44才)
  • 江戸時代後期”大塩平八郎の乱”を主導する

 

大塩平八郎と年表

年表

1793年(0才)大塩平八郎生まれる

1830年(33才)大塩平八郎、大坂奉行所の与力を辞め、大塩の家督を養子格之助にゆずる

1833~39年天保の大飢饉

1836年(43才)跡部良弼あとべよしすけ大坂東町奉行に就任

1837年(44才)大塩平八郎、乱をおこして失敗。自死する。

 

曲がったことを許せない人となり

大塩平八郎は大坂東町奉行与力よりき(当時の中級役人)の家柄の生まれです。

大変に頑固であり、潔癖な人だったようですが、そんな彼の性格や思想の基盤となったものとして陽明学の存在を忘れてはなりません。

権威に従順ではないところがあり、当時の日本の儒教では異端としてとらえられがちで

心に浮かび上がってくるものを大事にし(心即理)

自分の中でよいと信じることは行動にしなければ意味がない(知行合一)

といった教えが有名です。

そんな大塩ですから、大坂東町奉行役人時代から奉行所内の汚職や破戒僧など、なかなか手の出しづらい案件にいろいろと手を突っ込み摘発しております。

 

天保の飢饉と跡部良弼

1833年から洪水・冷害などの異常気象により全国的に天保の大飢饉が発生。

大量の餓死者が続出し、百姓一揆や打ちこわしも後を絶ちませんでした。

1836年には大坂東町奉行に跡部良弼が就任。

大塩はこの時すでに与力を引退し、顧問のような形で奉行所の行政に参与しておりました。

大塩は飢饉に苦しむ民たちのための献策をいくつも行いますが、跡部はそのことごとくをはねつけます。

むしろ、江戸に米を回したり、京都での米の買取を制限したりと大坂の民の窮状に対してよけいに拍車をかける始末。

こうして大塩は決意します。

 

 

乱起こる!

大塩は爆薬や大砲を準備し、門人たちとは軍事調練にはげみます。

そして近くの村々や大坂の町に決起の檄文をひそかに回します。

しかし、その目論見は内部からの密告により奉行所方にばれてしまいます。

大塩らはそれでも乱を決行。

多勢に無勢で半日で鎮圧され、大塩は養子格之助とともに商家にかくまわれますが、密告され取り方の押し入ってきたところを自分たちの隠れ家に火をかけ、爆薬に火を打って、爆死します。

 

乱後の行く末

大塩の死後も人々は彼の檄文を寺子屋の手習いにしたり、祭で彼らの姿をマネしたり、彼らやその残党を名乗って乱や一揆をおこしたりといったことが次々に起こります。

当時はこんなどうしようもない民の窮状にかかわらず、豪商たちは米を買い占めてその値段を吊り上げたり、幕閣や大名たちはワイロなどの不正事業に手を出し、自分や家門の栄達ばかりに躍起となっているなどというのはものすごく当たり前の風潮でした。

奉行所は大塩の死後も彼のスキャンダルをいろいろとでっち上げてデマを流したり、その火消しになりふり構わず努めますが効果はさほど上がりません。

仕方なく、塩漬けにしていた彼らの遺骸をはりつけにしますが、

もはや、どれがだれなのかもわからないほど傷んでいたのでかえって大塩の生存説により信ぴょう性すら持たせる皮肉となってしまいました。

こうして時代はいよいよと抜き差しならない“幕末”へと突入してゆき

乱後わずか30年にして270年近い栄華の江戸幕府はここ“大坂”で滅びます。

 

 

きょうのまとめ

この大塩という人は217cmという大変な身長の持ち主であったといわれております。

しかしその身長にも負けず劣らずものすごく大きなことをやってのけました。

それにしても世に“想定外”なる言葉がありますが

たぶん、この時代の幕府にとっても奉行所にとっても庶民にとってもこれは“想定外”だったのかもしれませんね。

でも後で検証してみればよく分かるように、

それはそんなに“想定外”のことだったのでしょうか。

① 大塩平八郎は”陽明学”の影響を受けたものすごく”曲がったことが許せない”人柄

② 大塩平八郎は天保の大飢饉による被害にまともに対応しようとせず、不正などにうつつを抜かす時代の風潮を変えようとして乱を起こした

③ 乱の失敗後も人々は大塩らの義挙に心を寄せ、一方で幕府はその求心力の喪失が世にあからさまとなってゆき、幕末・維新をむかえる

私たちはもう一度

過去と今と未来をシビアに見つめなおさねばならないかもしれません。

 
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