隠岐への流罪のはずが・・・。小野篁の復活劇!

 

その昔、流罪というのは絶望ものの刑でした。

家族や都から遠くはなれて不自由な暮らしをし、流刑先で亡くなってしまう人もいました。

朝廷で有能官吏として活躍していた小野篁おののたかむらは、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐に流されてしまいます。

しかし、彼は流罪でダメになったりはしませんでした。

 

どうして小野篁が流罪になったのか

小野篁

出典:Wikipedia

838年12月15日、小野篁が嵯峨上皇の怒りを買って官位を剥奪され、隠岐国の孤島への流罪に処されました。

流罪になった直接の理由

篁は、遣唐副使として唐へ航海しようとするとき、身勝手な遣唐大使・藤原常嗣ふじわらのつねつぐと争い、朝廷に抗議して乗船を拒否しました。

漢詩の達人である彼は、怒りにまかせて遣唐使の事業や朝廷を風刺する漢詩を作ります。

怒りに任せて過激な表現を多用し「遣唐使なんて時代遅れ」と皮肉ったのです。

それが嵯峨天皇の逆鱗に触れてしまいました。
 
嵯峨天皇を怒らせ、流罪となった原因の漢詩のタイトルは西道謡さいどうよう

詩は散逸してしまい、その内容の詳細はわかりません。

篁がどんな皮肉の効いた過激さで、朝廷と遣唐使を批判したのか知りたいものですが、残念です。

流罪という刑の意味

いつか赦される日がやって来るのか、一生赦されないのかもわからない流罪。

流刑先に辿り着くまでに船が難破したり、不自由な生活の流刑先で病死したりする者もありました。

過酷さにおいては保証付きの厳しい刑だったのです。

 

流罪でも弱気にならない篁

官位も剥奪されて流罪に処された小野篁ですが、「野狂」と呼ばれ反骨精神たっぷりの彼は、その流罪の際にも毅然とした詩歌を詠んでいます。

篁が詠んだ和歌 「わたの原」

わたの原 八十島やそしまかけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人あまの釣り舟

(『百人一首』11番)

(私は海原遙かに、数多くの島々を目指してこぎ出していったと、私の親しい都の人たちにつげておくれ、そこにいる海人の釣り船よ)

『和漢朗詠集』にも取り上げられた歌です。

小野篁が隠岐に向かって船出する前に、出雲国千酌ちくみ駅(松江市美保関町)で風待ちをしていたときに詠んだとも、難波の津(大坂)からの出発の時だったとの説もあります。

いずれにせよ12月という寒い時期に孤島へと向かう篁の歌です。

孤独感を背景にしながらも「我が出発を見よ」と胸を張って言う貴公子篁の姿に、いさぎよささえ感じられます。

哀しい、寂しいと思うのはむしろ残された人々のほうかもしれません。

高名な歌人の藤原俊成ふじわらのしゅんぜい壬生忠岑みぶのただみね藤原公任ふじわらのきんとうらが次々と褒めたたえ、多くの平安貴族たちに愛された和歌です。

篁が作った漢詩 『謫行吟たつこうぎん

篁は『謫行吟』という漢詩も隠岐への道中で詠んでいました。

たちまち学者や貴族達に愛唱されるようになったすばらしい漢詩だったとか。

ただ、残念ながら現存していません。

 

隠岐での篁

篁の流刑先は、本土から約60km先の日本海に浮かぶ、島根県隠岐諸島の隠岐島前どうぜん海士あま町でした。

約1年後には篁は海を渡って島後どうごに移ったと言われています。

島では仏像を彫り、赦免を祈る生活だったといいます。海士の里人たちが信仰する霊山・金光寺きんこうじ山の頂にある金光寺は篁が創ったものだそうです。

そこからは隠岐の島々を眺めることもできました。

実は、さすがの篁も島での生活のわびしさに「こんなつもりじゃなかった」と悄然とした気持ちを謳った歌も残しています。

それでもやはり彼は眉目秀麗の貴公子。

篁は隠岐でも数々の恋をしたそうです。

中でも阿古那あこなという娘との恋物語が有名です。

のちに阿古那との別れに際して、彼女へ2体の木像を彫り与えています。

それらは「あごなし地蔵」として今でも隠岐の島町しまちょう都万目つばめの「あごなし地蔵尊」に祀られています。

 

小野篁、都に復活

島の娘・阿古那と別れることになったのは、篁が京に呼び戻されたからです。

そう、小野篁は流罪から朝廷に返り咲いたのです。

本当は嵯峨上皇も篁を手放したくなかった?

嵯峨上皇は有能な能吏だった篁を惜しんで心変わりしたのか、配流された2年後に彼を京に呼び戻しました。

一説には、篁が流罪になったのは、嵯峨上皇の本意ではなく、勢いに乗っていた藤原氏の手前、篁に何らかの処分を下す必要があったからだと言われています。

考えて見れば、篁に対する流罪という処罰は重すぎたわけです。

朝廷復帰した篁は、官位も流刑以前に戻り「奇跡の完全復活」を成し遂げます。

人々は驚き、恐れ、「篁はただ者ではない」と噂しました。

超人・篁の復活から生まれた異界伝説

この篁の復活劇は、地獄の入り口で閻魔大王と共に働いていたという逸話に繋がります。

孤島の流刑地からの生還は、篁を地獄からも復活する超人的な男のイメージを作り上げました。

人々は、そんな篁のことを、閻魔大王の補佐も行えるほどの凄い人物だと信じたのでしょう。

 

きょうのまとめ

今回は小野篁の隠岐への流罪、そしてそこから復活したことについてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 小野篁は、遣唐使として渡航することを断り、遣唐使や朝廷を批判する内容の漢詩を作ったことで流罪になった

② 流刑地・隠岐へと向かう時も毅然とした和歌を詠み、潔かった

③ 官吏として優秀だった篁は2年の流刑ののち、京へ呼び戻されて元の官位で朝廷に復活した

④ 篁の奇跡の復活がのちの彼の「異界伝説」に繋がったと考えられる

流罪になっても毅然とし、流罪先でも恋をして、2年で朝廷に戻ったと思えば、以前にも増して超人的なオーラを携えていた小野篁。

さすがです。

 

小野篁の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「小野篁とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku