与謝野晶子とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

明治~昭和初期にかけて、それまでの文学を一新する浪漫派の代表格として、文学史に革命を起こした歌人・与謝野よさの晶子あきこ

彼女の情熱的で一本筋の通った作品群は、当時、保守的な風潮のあった女性たちに多大な影響を与えました。

そして生涯を通して女性の自立を訴え続けた晶子の熱意は、現代の女性の社会進出にも繋がっているといえます。

時代の風潮に流されず強く生きた歌人・与謝野晶子はいったいどんな人物だったのでしょう。

今回はその生涯を辿ることで、彼女の人間的な魅力に迫っていきます。

 

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与謝野晶子はどんな人?

プロフィール
与謝野晶子

与謝野晶子
出典:Wikipedia

  • 出身地:堺県和泉国大一大区さかいけんいずみのくにだいいちだいく(現在の大阪府堺市)
  • 生年月日:1878年12月7日
  • 死亡年月日:1942年5月29日(享年63歳)
  • 明治時代、浪漫派の筆頭として登場し、文学史の常識をくつがえした女流歌人。女性の自立を訴え、日本の男女の在り方にも影響を与えた。

 

与謝野晶子 年表

年表

西暦(年齢)

1878年(1歳)堺県和泉国大一大区さかいけんいずみのくにだいいちだいくにて、和菓子店「駿河屋」の3番目の娘として生まれる。

1887年(9歳)漢学塾にて朱子学や儒学を学び、琴や三味線にも精通。女学校時代は尾崎紅葉・幸田露伴・樋口一葉などの文学に目覚め、『源氏物語』などの古典も愛読した。

1898年(20歳)和菓子屋を手伝いながら雑誌に和歌を投稿、浪華なにわ青年文学会という歌会にも参加するようになる。

1900年(22歳)大阪を訪れていた与謝野鉄幹よさのてっかんの歌会に参加し、不倫関係に。このころから鉄幹主宰の文学誌『明星』に短歌を載せるようになる。

1901年(23歳)大阪の実家を家出し、鉄幹の住む東京・渋谷に移り住み、結婚。同時期に代表作『みだれ髪』を発表し、賛否両論により多大な注目を集める。

1904年(26歳)日露戦争に駆り出された弟の無事を祈る歌『君死にたまうことなかれ』を発表。反戦の歌といわれ、大きな波乱を呼ぶ。

1905~1911(27~33歳)歌集や評論文、童話などジャンルを問わず精力的に執筆活動を行う。

1912年(34歳)スランプを脱するためにパリへ渡っていた鉄幹の後を追い、ヨーロッパへ向かう。

1914年(36歳)鉄幹との共著『巴里パリより』にて、女性に対する教育の重要性を説く。このころよりヨーロッパ文化の影響が色濃く表れ、女性の自立を訴える評論文を多く執筆するようになる。

1921年(43歳)西村伊作・石井柏亭いしいはくてい・鉄幹らと共に、日本初の男女共学校・文化学院を創設する。

1938年(60歳)関東大震災による原稿焼失のトラブルにめげず『新新訳源氏物語』を完成させる。

1942年(63歳)脳出血で半身不随になり、合併症などが重なった結果死没。

 

与謝野晶子の生涯

文学に傾倒した幼少時代

与謝野晶子は1878年、堺県和泉国大一大区さかいけんいずみのくにだいいちだいく(現在の大阪府堺市)にて、和菓子店『駿河屋』を営む両親の3番目の娘として生まれました。

与謝野は結婚してからの苗字で、本名は鳳志ようほうしょうといいます。

晶子というのはいわゆるペンネームで、本名の志ようしょうが「晶」→「晶子」と変化していったものです。

当時は跡取りとなる男の教育に重点が置かれる時代柄、晶子は5人兄弟のなかでも特に扱いがよくありませんでした。

しかし彼女はそんな逆境にも負けず、幼少より朱子学・儒学を学び、『源氏物語』などの古典や、尾崎紅葉らの小説を中心に文学に精通

女性は出世とは無縁とされる時代において、雑誌に和歌を投稿したり、歌会に参加したりなど、自らの創作活動に積極的なその様子は、周囲からかなりの変わり者に映っていたでしょう。

与謝野鉄幹との出会い

幼少より進んで文学を志した晶子は相当に意志の強い女性で、一度思い込んだら一直線に突き進む性格でした。

そんな彼女のターニングポイントとなったのは、22歳のころに参加した与謝野鉄幹の歌会です。

晶子は兼ねてから鉄幹の詠む短歌を好んでおり、「どんな人が詠んでいるのだろう」と、この歌会にも嬉々としてやってきたのでした。

なんでも鉄幹の詠む歌はその言葉の鋭さから、「虎の鉄幹」などと異名が付くほどだったとのこと。

一本気な晶子のこと、なおさら刺激を求めていたのかもしれません。

案の定、晶子は鉄幹に一目惚れ。

これを機に2人は不倫関係になっていきます。

そう、鉄幹は立派な妻子持ち…まあ男女の仲だから、そういう間違いもあるのだろう、と思うところ…。

しかしそもそも鉄幹は、気に入った女流歌人にたびたび手を出す女癖の悪い側面もあったといいます。

…恋は盲目といいますか、ひょっとして晶子は見る目がなかったのかも?

家出・結婚・代表作の発表

2人が出会った翌年、1901年に晶子は大阪の実家を家出し、東京の鉄幹の元へと移り住みます。

実家としても家業を手伝っていた娘が急にいなくなったわけですから、それは困ったことでしょう。

このとき鉄幹は元妻と別れ、晶子と再婚

同時期に晶子は代表作となる『みだれ髪』を、鉄幹主宰の文学誌『明星』にて発表します。

みだれ髪は当時としてはかなり刺激の強い性的な内容で物議をかもしましたが、これは鉄幹との燃えるような恋からの影響で、晶子の思い込んだら止まらない性格の産物です。

彼女はこの作品を通して、一躍その名を世間に広めていくことになりました。

「不倫→家出→結婚→代表作の発表」と、鉄幹との出会いは晶子の人生に相当な波乱を巻き起こしたことがわかりますね。

壮絶な結婚生活…残した歌は5万首以上

心のおもむくままに、家族のことや不倫であることも顧みず、鉄幹と一緒になった晶子。

結婚してやっと幸せになれるかと思いきや、その生活はまたしても壮絶を極めました。

鉄幹は晶子の憧れの歌人であったとはいえ、作家というのはよほど売れっ子でない限り貧乏を強いられるものです。

おまけにみだれ髪の成功で有名になった晶子と、鉄幹の立場は逆転し、晶子は一家の稼ぎ頭に。

収入のない鉄幹と、11人もの子どもたちを養うために馬車馬のごとく働くことになります。

そのせいもあって、晶子が生涯に残した歌は5万首以上にも及びました。

有名どころだと反戦歌として問題視された『君死にたまうことなかれ』

このほかにも『恋衣』、『舞姫』、『常夏』、『佐保姫』など、多くの歌集を執筆しています。

そんなに働かされて、晶子も鉄幹と一緒になったことを少し後悔したのでは? などと思うところ…。

しかし彼女は「稼ぎ頭となることも自分から買って出たこと」とし、それどころかスランプに陥っていた鉄幹に対し、

晶子
ヨーロッパの空気を感じてリフレッシュしてきたら?

と、渡航費を工面する始末。

どこまで器が大きいんだ…そしてどこまで鉄幹に夢中なんだ…と、頭が下がります…。

女性の自立を訴え続けた晩年

1912年のこと、結局、鉄幹の後を追って自らも渡欧した晶子は、ヨーロッパで力強く生きる女性たちから刺激を受け、晩年は女性の自立を訴える活動に傾倒していきます。

帰国した2年後に発表した鉄幹との共著巴里パリより』では、女性の教育の重要性を唱え、またこのころから歌集だけでなく、その価値観を伝えるための評論文の執筆にも力を入れるようになりました。

また1921年には、建築家の西村伊作の声掛けで、鉄幹らと共に国内初の男女共学校・文化学院の創設にも携わります。

同時に兼ねてからの夢だった『源氏物語』の現代語訳にも取り掛かるようになり、40代以降の晶子は理想の実現に奔走する人生を送るようになっていきました。

源氏物語の現代語訳は1923年の関東大震災によって、文化学院の校舎が全焼し、一度は原稿が焼失。

しかしそれにもめげず晶子は、1938年に『新新訳源氏物語』を完成させています。

彼女が女性の自立を主張し続けたこと、男女共学校を創設するなどの行動に移したこともそうですが、何よりその諦めない姿勢、どこまでも一本気な性格が当時の女性たちに勇気を与えたといえるでしょう。

 

きょうのまとめ

与謝野晶子の歌人としての才能は、幼少期の文学のインプットによって養われた部分もやはりあるでしょう。

しかし彼女がその才能を発揮し、さらに多くの作品を生み出していったことには、夫・鉄幹の存在が不可欠でした。

「女好き」「収入がない」ということはどう考えてもマイナス要素ですが、だからこそ晶子の素晴らしい歌の数々が生まれたことは否めません。

また彼女がヨーロッパ文化の影響から女性の自立を訴えていくのも、もとを辿れば鉄幹がきっかけです。

結局はどこまでも恋に、愛に生きた女性ということでしょうか。

最後に今回の内容をまとめておきましょう。

① ターニングポイントとなったのは鉄幹との出会い。波乱の数々がその才能を開花させた

② 夫と11人の子どもを支える結婚生活は壮絶。稼ぎ頭となり5万首以上もの短歌を残した

③ 晩年はヨーロッパ文化からの影響で女性の自立を訴える活動に邁進。力強い生き様が多くの女性に勇気を与えた

母性本能というように、女性は本来、男性よりも愛や恋に生きる性質が強いものです。

そういう意味でも、鉄幹や子どもたちのために生きた晶子に、多くの女性が憧れたのは道理だったといえるでしょう。

 

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