大隈重信とはいったいどのような人物だったのでしょうか。
説明してと言われると、なかなか厳しいものがありますよね。
そこで今回は大隈重信の生涯について、簡単に振り返ります。
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大隈重信はどんな人?
- 出身地:肥前国佐賀藩(現在の佐賀市)
- 生年月日:1838年2月16日
- 死亡年月日:1922年1月10日(享年83歳)
- 初の政党内閣を組閣し、殖産興業の推進に努める。早稲田大学を設立した人物としても有名。
大隈重信 年表
1838年(0歳)佐賀藩の砲術長・大隈信保の長男として誕生(幼名 八太郎)。
1844年(6歳)弘道館入学。
1855年(17歳)弘道館退学。
1861年(23歳)弘道館の教授となる。
1865年(27歳)長崎に英学塾・致遠館を創設。
1867年(29歳)脱藩するも発覚・謹慎(3月)。横浜・江戸へ(10月)。
1868年(30歳)新政府に出仕。
1869年(31歳)大蔵大輔、民部大輔を兼任。
1870年(32歳)参議就任。
1873年(35歳)参議兼大蔵卿となる。
1881年(43歳)国会開設意見書提出(3月)。明治十四年の政変で下野(10月)。
1882年(44歳)立憲改進党の結成。東京専門学校を設立。
1888年(50歳)第一次伊藤博文内閣の外務大臣となる。
1889年(51歳)右足を切断。
1896年(58歳)進歩党結成。第二次松方正義内閣の外務大臣に就任。
1898年(60歳)憲政党結成。隈板内閣を組閣。
1902年(64歳)東京専門学校を早稲田大学に改称。
1907年(69歳)早稲田大学総長に就任。
1914年(76歳)第二次大隈内閣発足。第一次世界大戦勃発。
1915年(77歳)内閣改造で外務大臣を兼任。
1916年(78歳)内閣総辞職(10月)。
1922年(83歳)死去。日比谷公園で国民葬。
大隈重信の生涯を振り返る
若い頃から反骨精神の持ち主
大隈重信は1838年、佐賀藩の石火矢頭人(砲術長のこと)を務める父・信保の長男として生まれました。
明治新政府で活躍した人たちには下級武士出身層が多いイメージがありますが、大隈は上級武士の家柄です。
6歳になった大隈は藩校・弘道館に入学します。
しかし弘道館の教育方針に疑問を持った大隈は乱闘騒ぎを起こし、退学処分となってしまいました。
ですが英才として知られた大隈は、その後も学問を続けます。
そして退学から6年後、なんと弘道館の教授に就任したのです。
ですが1866年、大隈は時代の流れを読まない藩に嫌気がさし、学友だった副島種臣と脱藩します。
しかし捕らえられ、謹慎処分となります。
明治政府に出仕
程なくして処分が解かれ、江戸へ出た大隈重信。
1868年には明治人政府に出仕、外国事務局判事として長崎に赴任することになります。
そして赴任中には、浦上教徒弾圧事件(長崎・浦上のキリシタンを政府が捕らえ、流罪とした事件)が起こりました。
この政府の対応について、外国の公使団は猛反発。
大隈はその矢面に立たされることになったのです。
しかし、そこで大隈は臆することなく、うまく折衝を行いました。
また、財政改革においても素晴らしい活躍を見せ、大隈は実力によって閣僚ポストである参議に就任します。
そして1873年には参議兼大蔵卿(参議と大蔵卿。参議とは内閣の議官のこと。大蔵卿とは大蔵省の長官のこと)となり、
・学制公布
・国立銀行条例の制定
など、近代国家をつくりあげるために必要な改革をすすめていったのです。
明治十四年の政変
1880年頃から、全国で自由民権運動が活発化します。
自由民権運動とは政府に対して、民主的改革を求めた政治運動のことです。
そこで政府は参議に対し、国会開設についての意見を求めることにしました。
慎重派が多数を占める中、大隈はひとり、憲法を早く公布して国会を開設することを主張します。
これは当時、過激な主張として捉えられていました。
そこでこれをよく思わなかった伊藤博文らによって、大隈は失脚させられてしまいます。
これを明治十四年の政変といいます。
下野した大隈は、まず立憲改進党を結成しました。
さらに西洋諸国と肩を並べるには国民の啓蒙が必要であると考え、東京専門学校(現早稲田大学)を設立しています。
1888年、大隈は再び政府に呼び戻され、第一次伊藤内閣の外務大臣に就任します。
その翌年、大隈を悲劇が襲います。
極秘であるはずの条約の草案が明るみに出て、来島恒喜による爆弾テロに遭ってしまったのです。
初の政党内閣を組閣
しかしその翌年に行われた初の衆議院議員総選挙では、大隈の結成した立憲改進党は多くの議決を獲得。
その後、諸派と合同して進歩党を結成、さらには板垣退助率いる自由党と合同し、憲政党が誕生します。
そして1898年、初の政党内閣を組閣し、大隈は総理大臣に就任したのでした。
この内閣は大隈と板垣から一文字ずつ取って、隈板内閣と呼ばれています。
ですが、この内閣はわずか4ヶ月という短命に終わります。
次第に政治から遠ざかるようになった大隈は、文化や社会といった分野で活動することになっていきました。
1907年には憲政本党(詳しくは上記の記事をご覧ください)の総理を辞任、早稲田大学の総長に就任しています。
さらに全国で講演活動を行い、国民からの人気を獲得していきます。
国民的政治家として総理再登板
1914年、第一次山本権兵衛内閣が汚職事件で退陣し、その後任として大隈が選ばれます。
国民から支持されていた大隈に、世論を収めることを期待してのことだったといいます。
こうして大隈内閣は16年ぶりに成立。
このとき、大隈は76歳となっていました。
ですがこの内閣も閣僚の議員買収問題などで国民の支持を失い、総辞職に至ります。
日頃から健康に気を遣っていた大隈ですが、高熱を発症して昏睡状態に。
1922年1月10日、ついにこの世を去りました。
それから7日後、日比谷公園で国民葬が行われることになりました。
大隈の死を悼み、葬儀に訪れた人々は約30万人にものぼったそうです。
まさに国民的政治家であったことがうかがえますね。
大隈重信にまつわるエピソード
寂しがりやだった?
来客が好きなことでも有名だった大隈重信。
お客さんと座ってしゃべるのが楽しみだったそう。
なんと大正元(1912)年は年間で約2万3千人の来客があったとか!
もはや来客数というよりも、年間入場者数と呼べる規模です。
9時から15時まで訪問客に対応していたという大隈は、雨の日などで来客が少ないと、
と寂しがっていたそうです。
始球式で気を遣われる
野球の始球式って、なんでいつも空振りするんだろうと疑問に感じたことはありませんか?
その慣習の確立には、大隈重信が深く関わっていました。
というのも、日本で初めて始球式を行ったのが大隈だったからです。
1908年、早稲田大学野球部は来日したアメリカのプロ選抜チームと対戦。
大隈は羽織袴にソフト帽という出で立ちでマウンドに上がったといいます。
そしてボールを投げるも、一塁側のベンチに大きくそれてしまいました。
このままでは大隈先生の球は「ボール」になってしまう・・・・・・。
そこで気を遣った早稲田のバッターは、あわててバットを大きく振ったとされています。
この出来事が、始球式の「空振り」という伝統を生み出したとか。
メロンが大好き
さて、大隈は大のメロン好きとしても有名。
日本人で初めてマスクメロンを食べたともいわれています。
好きが高じて栽培にまで取り組み、自宅で品評会まで開いていたそうですよ。
ですが、メロンといえば当時は高級品。
そこでスイカのように一般庶民が食べられるようにしたいと考え、「ワセダ」という新しい品種まで作っています。
さらにマスクメロン協会を創設、初代会長には伊藤博文が就任したそうです。
明治十四年の政変でなんやかんやあったはずの二人が、マスクメロンって。
いつの時代も、メロンは人を惹きつけてやまないということでしょうか。
きょうのまとめ
今回は大隈重信の生涯を簡単にまとめましたが、いかがでしたでしょうか。
大隈重信とは?
② 早稲田大学を創立した
③ 国民から多くの支持を集めた政治家だった
④ 大の来客好きだった
⑤ 日本で初めて始球式を行い、マスクメロンを食した人物でもある
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