大久保利通といえば、どのようなイメージがあるでしょうか。
非情で冷酷?策謀家?
もしかしたら専制政治家という答えもあるかもしれません。
どういうわけか、
大久保利通についてはあまり良い印象を持っていない方が多いようです。
そこで今回は少しでもイメージを良くすべく(?)、
大久保利通の性格が読み取れそうなエピソードについて簡単にまとめました。
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大久保利通のイメージが変わる?エピソード
孤児を御者に
大久保利通は1878年、東京の紀尾井坂という場所で暗殺されました。
その際、殺されたのは大久保だけではありません。
中村太郎という御者(馬車の馬を走らせる人のこと)も一緒に命を落としたのです。
享年26歳くらいであったと言われています。
実はこの中村太郎という男性、もとは名前すらない孤児でした。
身寄りのなかった少年を大久保は召し抱え、御者にしていたのでした。
非情や冷徹といったイメージからは程遠いエピソードではないでしょうか。
現在、大久保利通のお墓は東京の青山霊園にあります。
そして大久保の墓の奥には、共に犠牲となった中村太郎の墓もあります。
もし訪れる予定があれば、
一緒に手を合わせてくださいね。
子煩悩だった大久保利通
大久保利通には、八男一女の子どもがいました。
公務で忙しい大久保でしたが、土曜日の夕食は家族で食べるようにしていたそうです。
特に娘のことは可愛がっていたそうで、暗殺されることになる日の朝も、泣き止まない娘を抱きかかえてあやしてから出勤したと言われています。
子どもたちを怒るようなこともなく、帰宅した大久保の靴を子どもたちが脱がそうとするも大久保は脱げないように踏ん張ったり・・・
という微笑ましいエピソードもあるようです。
大久保家はとても幸せそうな家庭だったのだろう、と想像できます。
多額の借金は国のため
すでにご紹介した通り、
大久保利通は暗殺によってこの世を去ります。
ただでさえ悲しみに暮れた家族は、
さらなる衝撃を受けたと思います。
なんと大久保は、8,000円という多額の借金を抱えていたのです。
これを現在の価値に直すと、1億とも2億とも言われています。
大久保利通くらいになると、多額の資産を巡り、遺族による相続争いが勃発してもおかしくないような・・・。
では、こんな大金を何につぎ込んでいたのでしょうか。
女性?それともお酒?
いえいえ、大久保はそんなものには使っていませんでした。
公共事業の不足した財源に充てたり、鹿児島県庁に学校費として寄付したりと、決して自分の遊興のためではありませんでした。
大久保にお金を貸していた人間は、
その使い道を知っていたようです。
そのため、大久保の死後に借金を取り立てに来る人はいなかったようです。
大久保利通は私財を投じてまで(借金した分はありますが・・・)国を良くしようと努めていたようです。
囲碁の有名エピソードは嘘だった!?
大久保利通のずる賢いエピソードとして有名なのが、
島津久光に近づくために囲碁を習い始めたという話です。
大久保がまだ藩の中でも低い身分であった頃、
藩の権力者・久光が囲碁好きであるところに目を付けました。
そこで囲碁を習い始め、久光の囲碁の相手をすることで取り入ったということになっています。
ですが実際には、大久保はもっと若い頃から囲碁を打っていたそうです。
17歳の頃の日記には、すでに囲碁を打ったという内容が残されています。
ということは、権力に取り入るためにわざわざ習い始めたわけではなかったのですね。
そして大久保にとって囲碁とは出世するための道具でもなく、生涯にわたっての趣味であったそうです。
きょうのまとめ
今回は、大久保利通の性格について見方の変わるようなエピソードをご紹介しました。
大久保利通は、
② 家族との時間をとても大切にしていた
③ 私財を投じて国を良くしようとした
④ 島津久光に取り入るため囲碁を習い始めたのは嘘だった
と言えます。
この記事を読まれた方の大久保利通のイメージが少しでも良くなったら嬉しいです。
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