大久保利通とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

西郷隆盛が主人公のNHK大河ドラマ「西郷どん」の人気で

ますます幕末人気が高まっていますね。

西郷といえば、同じく薩摩出身の

大久保利通おおくぼおとしみちと盟友関係にありましたね。

では、大久保利通とはどんな人物だったのでしょうか。

今回は大久保利通の生涯について、簡単にご紹介していきます。

 

大久保利通はどんな人?

プロフィール
大久保利通

大久保利通
出典:Wikipedia

  • 出身地:鹿児島城下の高麗町(現在の鹿児島市)
  • 生年月日:1830年9月26日
  • 死亡年月日:1878年5月14日(享年49歳)
  • 「維新の三傑」の一人。明治新政府の礎を築くも、紀尾井坂の変で暗殺される。

 

大久保利通 年表

年表

西暦(年齢)

1830年(1歳)鹿児島城下の高麗町に生まれる。

1846年(18歳)薩摩藩の記録所書役となる。

1850年(22歳)お由羅騒動で免職・謹慎の処分を受ける。

1853年(25歳)謹慎を解かれる。

1866年(38歳)第二次長州征討の出兵拒否。

1869年(41歳)明治政府の参議に就任。

1871年(43歳)岩倉使節団の一員として、欧米12カ国を歴訪。大蔵卿に就任。

1873年(45歳)帰国。征韓論で西郷らと対立。内務卿に就任。

1877年(48歳)西南戦争の指揮を執る。

1878年(49歳)紀尾井坂で襲撃され、死亡。

 

薩摩藩の下級武士の生まれから明治維新の立役者へ

大久保利通は1830年、

鹿児島城下で薩摩藩下級武士の子として生まれます。

大久保が幼い頃、

近所には西郷隆盛や東郷平八郎といった、後に大物になる人物も住んでいたようです。

精忠組の結成

青年となった大久保は記録所書役助かきやくすけ

すなわち役所で書類を取り扱う仕事に就きます。

そして大久保が22歳の頃、

薩摩藩を揺るがす大事件「お由羅ゆら騒動 」が起こりました。

お由羅騒動とは藩主の座をめぐるお家騒動のことで、

家臣たちも長男の斉彬なりあきら派と五男の久光派に別れて対立しました。

その騒動によって、大久保の父・利世は務めていた琉球館附役を罷免ひめんされ、遠島となりました。

また大久保本人も記録所書役助の職を罷免され、謹慎処分を受けます。

結局これを重く見た幕府の老中・阿部正弘の命により、

斉彬が藩主となることで騒動は決着しました。

この騒動を受け、大久保や西郷隆盛たちを中心として精忠組せいちゅうぐみ(誠忠組とも)が結成されます。

精忠組とは、斉彬の擁立ようりつ藩政改革の実現を目指す人たちの集まりです。

このグループは、のちに薩摩藩内で大きな力を持つことになります。

公武合体から倒幕へ

しかし斉彬の死後、藩主となった茂久(忠義)の父・久光が権力を握ります。

その久光の下、薩摩藩は公武合体運動(天皇の権威を借りて幕政を立て直そうという運動)を推し進めていきました。

ですが次第に薩摩藩は幕府と対立し、

倒幕へと態度を改めます。

1866年には坂本龍馬、中岡慎太郎らの仲介で、

薩摩と長州の間で同盟が結ばれます。

いわゆる薩長同盟が結ばれた後、薩摩藩は幕府から第二次長州征討のため、出兵の命を受けます。

しかしこれに対して大久保は、NOを突きつけたのでした。

その後も当時の将軍・慶喜との対立が続きます。

お互いの駆け引きの末、ついに大久保たちは「王政復古の大号令」という朝廷内における幕府に近い勢力を追い落とすクーデターに成功しました。

明治政府の礎を築く

やがて戊辰戦争も終わり、明治新政府ができました。

大久保は政府の高官として、版籍奉還廃藩置県を行います。

一筋縄ではいかない仕事ばかりだったようですが、

大久保は着実に新政府の基礎を作り上げていったのです。

参議や大蔵卿といった重要なポストを経て、

1871年には木戸孝允や伊藤博文らとともに岩倉使節団に参加します。

欧米諸国を歴訪した大久保たちは西洋の文化に直接触れることで、

その後日本の近代化に大きく貢献しました。

帰国後は武力を持ってでも韓国を開国させようとする征韓論に反対し、盟友であった西郷隆盛と対立することになります。

この出来事は、明治六年の政変と呼ばれています。

それをきかっけに政権を掌握した大久保は、地租改正や殖産興業の推進といった政策を推し進めていきました。

1877年、西郷隆盛が西南戦争で自害します。

このとき、西郷は敵であったものの、彼の死を大いに悲しんだといわれています。

そしてその翌年、大久保利通は暗殺されてしまいます。

明治維新の立役者は、49歳の若さでこの世を去りました。

大久保が襲われた場所は東京の紀尾井坂だったので、

紀尾井坂の変と呼ばれています。

 

大久保利通にまつわるエピソードや伝説

さてここからは、大久保利通という人物の人柄に迫りたいと思います。

大久保は西郷隆盛と心中しようとした?

1862年、島津久光は尊王攘夷派を抑え込むために上洛する計画を立てます。

その際、西郷隆盛は

「下関で待て」との命を久光から受けていました。

しかし西郷は、今回の久光の上洛計画を討幕に動き出したと勘違いした

尊王攘夷派の志士たちが、武力蜂起するという計画があることを知ってしまいます。

居ても立っても居られなくなった西郷は久光の命を無視し、

武力蜂起の計画を抑えるため大坂へと向かってしまいました。

もちろん、久光は大激怒しました。

そこで西郷を心配した大久保は真実を久光に報告するも、受け入れてはもらえませんでした。

さらに、なおも西郷は久光に意見をしに行くつもりだったといいます。

二人の前途を悲観した大久保は、

西郷を浜辺に呼び出し、刺し違えて死のうと提案をします。

しかし西郷はこれを拒否し、罪人になっても生きることを誓いました。

そして西郷は、徳之島への流刑をうけます。

実はこれは大久保が一芝居打っただけで死ぬ気はなく、

西郷に罰を受け入れさせるためだったようです。

雨で滑っただけだったのに

幕府が倒れる前の1862年、島津久光の行列を乱したとして、

薩摩藩士がイギリス人の商人たちを斬りつけるという事件が起こりました。

4人のうち1人が亡くなり、事件が起こった地名から生麦事件と呼ばれるようになりました。

そしてイギリスは、この事件をきっかけに薩摩藩へ艦隊を派遣しました。

薩摩藩側に、その事件の賠償金を要求するためです。

まずイギリス側が薩摩藩船を捕まえ、それに対する報復として薩摩藩はイギリス船への砲撃を開始します。

これが薩英戦争(1863年7月2~4日)です。

大国とたったひとつの藩との戦いですから、

当然戦力には大きな差があり、薩摩側に勝ち目はありません。

ですが薩摩は意外と善戦し、

イギリス側に大きな被害を与えることになります。

この戦争の指揮に当たっていたのが、大久保利通でした。

その際イギリス軍艦の様子を見ようと倉の屋根に上った大久保ですが

雨で滑ってしまい腰を痛めてしまいました。

それを見ていた人たちは、

「大久保はイギリス船を見て腰を抜かした!」と噂をしたといいます。

後年になっても、大久保はそれは誤解だと語ったそうです。

そんなことどうでもいいじゃないかという気もしますが、

彼のプライドはそれを許さなかったのでしょう。

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。

大久保利通とは?

① 倒幕の中心的人物であった

② 明治新政府でも要職を務め、重要な政策を推し進めた

③ 西郷隆盛のために一芝居打ったことがある

④ イギリス軍艦を見て腰を抜かした!と言われることは、プライドが許さなかった

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よろしければどうぞ御覧ください。

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薩長同盟を仲介した坂本龍馬については、下記の記事に詳しく書いてあります。
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