織田信秀とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

織田信秀のぶひでの名に聞き覚えがなくても、

「織田信長の父」と知ればピンとくる人も多いことでしょう。

戦国武将でも絶対の知名度と人気を誇る織田信長の父親・織田信秀とはどんな人物だったのでしょうか。

 

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織田信秀はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:尾張国(現在の愛知県)
  • 生年月日:1511年(諸説あり)
  • 死亡年月日:1551年(諸説あり)(享年42歳)
  • 尾張を中心に活躍し、武勇・朝廷への外交手腕・経済政策にも長けた武将。その先見性と基盤が、息子・信長の活躍に多大な影響を与えた。

 

織田信秀 年表

年表

西暦(年齢)*生年1511年、没年1551年説を採る

1511年頃(1歳)清須織田家の三奉行の1つ、織田弾正忠信定の子として誕生。

1526年頃(16歳)父・信定より家督を譲られて当主となる

1533年(23歳)飛鳥井雅綱と山科時継を招いて勝幡城で蹴鞠会を開催

1534年(24歳)織田信長が誕生

1535年(25歳)三河の松平清康(徳川家康の祖父)が尾張東部の守山への侵入後、家臣に暗殺される

1538年(28歳)今川氏豊の居城・那古屋城を奪う

1540年(30歳)三河の安祥城を攻略

1544年(34歳)加納口の戦いで美濃の斎藤道三の居城・稲葉山城に攻め込むも、惨敗

1548年(38歳)小豆坂の戦いで、今川義元方の太原雪斎に敗れる

1549年(39歳)斎藤道三の娘・濃姫を信長の正室に迎える

1552年頃(42歳)信秀死去

 

織田信秀の生涯

尾張国における信秀のポジション

織田信秀は、1511年に尾張国(現財の愛知県稲沢市)の勝幡しょばた城主・織田信定長男として生まれました。

当時、信定は尾張守護斯波しば氏の配下である守護代・織田氏のうち、清洲織田家を支える清洲三奉行(三家老ともいう)の一人でした。

1526年に信秀が家督を相続し、1534年に息子の信長が誕生しています。

城を移りながら勢力拡大

信秀は智勇にすぐれた武将でした。

2家ある守護代のうちの大和守家のさらにその下の地位だった彼の勢力拡大の方法はとてもユニーク。

1538年 那古野城なごやじょうを今川氏豊うじとよから謀略で奪い、居城にして地元を経済基盤とする

1539年 古渡城ふるわたりじょうを築城して居城とする。熱田を2つめの経済的基盤とする

1548年 末森城すえもりじょうを築城して居城とする

このように10年のうちに居城を次々と変えて移動しながら経済基盤を確保するのが彼の方法でした。

多くの戦国武将は通常居城から動かなかったので、当時としては珍しい戦略と言えます。

経済力を背景に地位を獲得

信秀はそれぞれの城を拠点にし、木曽川舟運の港として栄えた津島みなと、伊勢湾舟運で潤う熱田湊など、港町や門前町を掌握し、商人と結びついて莫大な富を得たのです。

その財力は、主家である清洲織田氏をしのぐほどの勢いとなりました。

経済的基盤で財力を持った信秀は、

・朝廷に献金 → 従五位下に叙位、備後守に任官 → 室町幕府第13代将軍足利義輝に拝謁

・伊勢神宮遷宮への献金

・内裏修理のための献金

というようにその財力で高い地位と朝廷の信頼を勝ち得たのです。

隣国との争い

信秀が経済力をつけ、主君である尾張守護・斯波家をもしのぐほど尾張を代表する勢力となると、隣国である駿河国今川氏美濃国斎藤氏との抗争が頻繁に起きました。

1529年 徳川家康の祖父・松平清康によって領土を奪われる

1540年 松平氏の安祥城(三河)を攻略し支配下に置く

1542年 松平清康死後の土地を巡る第一次小豆坂の戦いで今川義元軍に勝利

1544年 美濃国(現在の岐阜県)で斎藤道三から一時大垣城を奪う

しかし、信秀は隣国との闘争を繰り返しながらも、尾張国内においては守護、守護代との関係を維持しており、彼らを出し抜くようなことはしていません。

力の陰り、信秀の死

やがて信秀は、駿河国の今川義元、美濃国の斎藤道三に押され気味になります。

1547年 加納口の戦いで、斎藤道三に大敗

1548年 信秀の甥の犬山城主・織田信清と楽田城主・織田寛貞ひろさだの謀叛を鎮圧。斎藤道三に大垣城を奪還される

1548年 第二次小豆坂の戦いで今川方の太原雪斎に敗北

1549年 安祥城の戦いで今川義元に敗北

身内での抗争が起きる中、道三と義元2人を同時に敵に回すのは不利だと悟った信秀は、1548年に斎藤道三との講和を申し入れました。

翌年の道三の娘・濃姫のうひめ帰蝶きちょうと信秀の息子・信長との結婚はその条件だったのです。

一方、今川氏には押され続けます。

1549年、信秀の庶子(妾の子)・織田信宏の安祥城が今川方の太原雪斎たいげんせっさいの軍によって陥落。

城主・信広が生け捕りとなると、織田家は確保していた竹千代(のちの徳川家康)と人質交換し、竹千代によって得ていた西三河での勢力を失います。

その頃から病気がちとなった信秀は、1552年に末森城で生涯を閉じました。

 

鮮やか? 狡猾? 信秀の那古野城奪取作戦

信秀は、目的のために手段を選ばないところがあったようです。

彼が那古野城を奪取した手口は、実に計画的で巧妙でした。

那古野城主は、今川義元の弟の若い城主・今川氏豊

彼は連歌狂として知られ、信秀はそれを利用したのです。

あらかじめ歌仲間として接近し、氏豊と親しくなった信秀。

その親密度は、那古野城内に信秀専用の宿泊場所が準備されるほどでした。

1538年、那古野城に宿泊中の信秀は、重病に陥ったフリをして城外から人を呼び込みます。

そうして城の内外から同時に戦いを起こしたのです。

城下に放火をして混乱を招き、軍勢を城の中に招き入れると、城を乗っ取ってしまいました。

この事件が全くの史実とする証拠はないのですが、突然に那古野城が信秀の手に陥ったことは事実なので、同様のことが実際に起こったと考えられます。

あなたはこのやり方を鮮やかな作戦と考えますか? 

それとも・・・?

 

信長を選んだ父親の優れた先見性

経済的基盤が勢力拡大に重要だと気づいた織田信秀の先見性はさすがです。

そんな信秀の未来を読む力の証明として、誰もが納得する証拠があります。

それは、織田信秀が「織田家の跡継ぎに信長を選んだこと」です。

信長は「大うつけ」と悪評高かった不良青年でした。

多くの人が信長の行状に落胆し、品行方正な信長の弟・信行の方を高く評価していました。

しかし、父・信秀は信長に那古野城を与え、幼い頃から後継者として決めていたのです。

彼の目には、素行の悪かった信長のどこかに光る可能性が見えていたのかもしれません。

 

織田信秀の墓所

信秀が眠る 萬松寺

萬松寺ばんしょうじは、1540年織田信秀の開基によって建立された織田家菩提寺です。

のち信秀は境内に埋葬されました。

若かりし織田信長が信秀の位牌に抹香を投げつけた事件は、この寺院での出来事。

もともとは5万5千坪、七堂伽藍の大寺院でしたが、名古屋大空襲によって焼失していました。

戦後徐々に復興され、本堂は1994年に完成。

境内に埋葬されていた損傷の激しかった織田信秀の墓碑は、2018年に新しく祀られました。

信長のからくり人形もあり、名古屋の観光名所として知られています。

亀岳林きがくりん 萬松寺:愛知県名古屋市中区大須3丁目29-12>

息子・信行が父・信秀のために 泉龍山桃巌寺

父・織田信秀の菩提を弔うために、2男・信行が建立した寺です。

寺名の桃厳寺とうがんじは、信秀の法名「桃巌道見大禅定門」にちなんだもの。

本堂には直径1mの日本一大きな木魚、境内には高さ10mの青銅製の名古屋大仏とともに信秀の墓があります。

<愛知県名古屋市千種区四谷通2-16>

 

きょうのまとめ

今回は、織田信長の父として知られる織田信秀の活躍についてご紹介しました。

織田信秀とは

① 商業的経済基盤と武勇によって勢力拡大した清洲織田家の武将

② 豊かな財力を背景に朝廷からの信頼と公的な地位を確保した尾張の実質的実力者

③ 織田信長を後継者に選ぶという先見性のある父親

でした。










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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku