中大兄皇子の家系図や家族関係についてご紹介します。

 

古代日本の立役者として有名な中大兄皇子なかのおおえのおうじ

祖先や家族はどのような人たちだったのでしょうか?

中大兄皇子と家族の関係を知ると、

中大兄皇子の「別の顔」が見えてきます。

今回は、中大兄皇子の家系や家族について、ご紹介します。

 

中大兄皇子の家系図

天智天皇

『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ)
出典:Wikipedia

中大兄皇子(天智天皇)の家系図をみてみましょう。

以降に登場する人物は太字になっています。

 

 

天皇家の始祖

中大兄皇子は天皇家なので、

祖先をさかのぼると皇祖神の天照大神あまてらすおおみかみに、たどり着きます。

天照大神は太陽を神格化したもので、

天照大神を奉っている代表的な神社は伊勢神宮です。

天照大神から代が下り、初代天皇となったのが神武天皇じんむてんのうですが、

現代では、実在しなかっただろうと言われています。

誰が実在する始めての天皇なのかは、わかっていません。

第10代崇神天皇、第15代応神天皇、第26代継体天皇あたりが有力だと言われています。

 

天皇陛下ばかり!中大兄皇子の家族の紹介

中大兄皇子自身も、後に第38代天智天皇となりますが家族も天皇ばかりでした。

天智天皇の家族で、天皇だった人物を紹介します。

父・舒明天皇(じょめいてんのう)

中大兄皇子の父親第34代舒明天皇です。

舒明天皇は蘇我家の後押しで天皇に即位し、政治の実権は蘇我蝦夷そがのえみしに握られていました。

母・皇極天皇(こうぎょくてんのう)(斉明天皇)

舒明天皇の後、天皇に即位したのは中大兄皇子の母親にあたる人で、

舒明天皇の皇后、宝皇女たからのおおきみでした。

宝皇女は第35代皇極天皇として即位します。

当時は年齢の問題などで、天皇に相応しい皇子がいない場合、

「中継ぎ」として皇后が天皇になることはよくあることでした。

「乙巳の変」の後、弟の軽皇子かるのみこ孝徳天皇こうとくてんのう)に天皇の位を譲りますが、

孝徳天皇が亡くなると、再び斉明天皇として天皇の位につきます。

同じ人が、二度、天皇になることを重祚じゅうそといいます。

とても気の強い性格で高齢にもかかわらず、

朝鮮半島での戦争(白村江はくすきのえの戦い)に備えて、

自ら筑紫つくし(現在の福岡)に遠征し、遠征中に疫病で亡くなりました。

弟・天武天皇

中大兄皇子(天智天皇)が亡くなった後に、

天皇に即位したのは、弟の天武天皇です。

即位前は大海人皇子おおあまのおうじと呼ばれていました。

カリスマ性のある人物だったといわれています。

天皇中心の政治を強化し、大臣は置かず、自ら政治を主導し、

日本の律令国家(法治国家)体制を目指しました。

義妹・持統天皇

天武天皇の後は、皇后の鸕野讚良皇女うのさららのひめみこ

持統天皇として即位します。

実は、持統天皇は天智天皇の実の娘でもあります。

天皇候補の皇子が幼かったため、

「中継ぎ」として即位しました。

中継ぎとはいえ、天皇として積極的にリーダシップを発揮し、

天武天皇の政治路線を引き継ぎました。

 

かなりドロドロ?中大兄皇子と家族のエピソード

妹と恋愛関係

中大兄皇子は、実の妹の間人皇女はしひとのひめみこ

と不倫関係にあったと言われています。

当時は、親戚同士で結婚することは、よくありましたが

「同じ母親」同士の兄妹の恋愛は許されていませんでした。

(異母の兄妹は許されていました。)

さらに間人皇女は、中大兄皇子の叔父の孝徳天皇の皇后だったので、

不倫の関係でもありました。

「乙巳の変の後、中大兄皇子がなかなか天皇に即位しなかったのは、このスキャンダルが原因である」

という説もあります。

大海人皇子と三角関係

中大兄皇子の弟である大海人皇子には、

額田王ぬかたのおおきみという美しい妃がいました。

二人は子どももいる、仲の良い夫婦でしたが、中大兄皇子は額田王に横恋慕します。

大海人皇子に額田王を譲るように言い、中大兄皇子の権勢を恐れた大海人皇子は

言われるままに差し出しました。

その時に額田王の代わりにと、大海人皇子に嫁がせた自分の娘が

鸕野讚良皇女で、後の持統天皇です。

弟 vs 息子

中大兄皇子(天智天皇)は、大海人皇子に自分の亡き後は

天皇の座を譲ると約束していましたが、

実は、息子の大友皇子に後を継がせたいと考えていました

中大兄皇子(天智天皇)は死の間際に、大海人皇子を呼び出し、自分の死後は天皇になるように、と言いつけます。

しかしこの提案は罠で、これを受ければ暗殺されると

悟った大海人皇子は、固辞し吉野に逃れました。

大海人皇子は、中大兄皇子(天智天皇)が亡くなるのを待って、挙兵しました。

これが「壬申の乱」です。

大友皇子を倒した大海人皇子は、天武天皇として即位します。

その後もしばらく、天皇家は天武系と天智系に分かれ、対立することになりました。

 

きょうのまとめ

中大兄皇子の家系や家族についてご紹介しました。

簡単にまとめると

① 中大兄皇子の始祖は天照大神である。

② 父、母、弟、義理の妹が天皇になった。

③ 実の妹と不倫関係にあったといわれている。

④ 弟の妃と三角関係になり、略奪した。

⑤ 死後、弟の大海人皇子と息子の大友皇子が争い、大海人皇子が天皇の座に就いた。

中大兄皇子(天智天皇)の家族関係は複雑なものでした。

歴史の授業では英雄として扱われていましたが、実際はいろいろな側面をもった方だったのだろうと感じました。

 

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