後年になってから新選組に入隊した
中島登。
刀を使って活躍するチャンスが少なかった彼ですが、
職務を全うし、のちの新選組研究に非常に役立つ記録を残しました。
中島登とはどんな生涯を送った人物だったのでしょうか。
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中島登はどんな人?
- 出身地:武蔵国武州多摩郡(現東京都八王子市)
- 生年月日:1838年2月25日
- 死亡年月日:1887年4月2日(享年50歳)
- 新選組での役職:伍長
- 剣の流派:天然理心流
- 愛刀:濃州住志津三郎兼氏(のうしゅうしずさぶろうかねうじ)
- 墓:浜松市中区下池川町 天林寺
- 中途入隊だったが新選組の終わりを見届け、隊の仲間たちの勇姿・活躍の記録を後世に残し、浜松で残りの人生を過ごした。
中島登 年表
西暦(年齢)
1838年(1歳)武州多摩郡の農家の長男として誕生
1856年(19歳)天然理心流入門
1864年(27歳)新選組に入隊
1867年(30歳)新選組伍長就任
1869年(32歳)新選組は弁天台場にて降伏、謹慎の身となる
1870年(33歳)越後藩を経て駿河藩お預けになり、中旬には赦免。多摩に帰還
1881年(44歳)趣味で育てた葉蘭「金玉廉」が爆発的に売れる
1884年(47歳)中島鉄砲火薬店開業
1887年(50歳)浜松にて死没
中島登の生涯
中途入隊の中島ですが多摩出身で、局長近藤勇と同じ天然理心流の門人でした。
秘密の使命を帯びて新選組に入隊
武州多摩郡小田野の農家・中島亦吉(又吉)の長男として誕生。
1856年19歳で天然理心流に入門しました。
江戸防衛を職務とする八王子千人同心に所属しましたが、同僚の1人との諍いで斬殺した後、親戚のもとに逃れていたそうです。
中島の新選組入隊時期は明確ではありません。
中島が残した記録「覚書」の開始は、甲州勝沼の戦いからです。
中島は1864年に入隊し、近藤の命で武州・甲州・相模の地理調査などを極秘で行っていたと言っています。
新選組隊士・島田魁の『英名録』には中島の1867年7月以降の入隊らしき記述があります。
中島が近藤の密命任務について他言しなかったので、他の隊士に中島入隊の認識がなかったのかもしれません。
土方歳三について戦った男
1868年流山で近藤勇が新政府軍に投降したあと近藤奪還を狙いましたが、監視は厳しく実行できませんでした。
近藤が板橋で処刑された後、中島は負傷した土方歳三を警固しながら数名の新選組隊士らと共に宇都宮・日光口・会津と転戦。
のち仙台で榎本武揚ら旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡り、箱館戦争でも土方について行動しています。
しかし、1869年の土方の壮絶な戦死の後には、弁天台場で島田魁らと共に降伏。
青森や箱館での厳しい謹慎生活の後静岡に引き渡され、亡くなるまで浜松の地で暮らしました。
享年50。
「たかくとも 五十の峠をやすやすと 越ゆれば御代の 春ぞのどけき」
中島の辞世の句です。
印象的なエピソード
中島登のひととなり
近藤勇の密命で武蔵・相模・甲斐三国を調査していた人物ですから、情報収集や駆け引きなどが上手かったかもしれません。
容姿については、
という目撃談があります。
彼の肖像写真が残されていますが、その鋭い目つきと物言いたげな表情は、なかなかのきかん坊の性格を表わしているように見えます。
なんと言っても、あの「鬼の副長」土方歳三に最後までついていった男なのですから。
『戦友絵姿』と『中島登覚え書』
刀を使った華々しい戦歴こそなかった中島登ですが、彼の新選組隊士としての最大の功績は、『戦友絵姿』と『中島登覚え書』を残したことです。
『中島登覚書』
彼が箱館戦争後、収容先にて書いた戦記です。
原本は現存しませんが、土方の実家や親類の佐藤家で筆写されて伝えられました。
戊辰戦争時の戦死・負傷者名簿、甲州勝沼の戦いから箱館戦争の投降終結、捕虜収容に至るまでの新選組同志の行動の記録です。
『戦友絵姿』
中島によって描かれた新選組の人物紹介付きの姿絵集です。
・土方
・斎藤一(山口二郎)
・野村利三郎
ら、当時戦死したとされた者たち(斉藤一の戦死は誤解)の絵と自画像を含めた29枚が現存しています。
新選組の回想録を記した元新選組隊士が何人かいる中で、中島の記録が貴重なのには理由があります。
「新選組生き残り」としての記録にはどうしても誇張や美化が伴いやすいのですが、中島登は遅れて入隊し、自慢できるほどの戦功もなく大袈裟に表現する活躍のベースさえありませんでした。
そのため、『覚え書』の記録は、誇張のない良心的な記録と考えられているのです。
ツッコミどころ満載の商売人・中島登
戦後、駿河藩お預けとなっていた中島は、土地の開墾に尽力して自分の田地を人々に譲渡するなど地域に貢献し、浜松に定住しました。
商売を始めたその後の人生は、失敗と成功の繰り返しでした。
まず、友人の旧幕臣と協力して始めた質屋経営に失敗。
ところが1881年、趣味で栽培していた葉蘭に偶然新種が誕生したのです。
品評会でも高く評価され、爆発的な売れ行きの大ヒット。
ちなみに、その新種の名前は「金玉廉」。
誰が命名したのか、そのセンスには大いに疑問が残ります・・・。
これのおかげで財をなした中島だったのですが、そんな夢のようなハナシは悪夢へ転落します。
なんと馬がその葉蘭の親株を食べてしまったのです。
「金玉廉」は即販売終了!
馬が親株を食べるって・・・状況が謎すぎます。
さらに彼の不思議さは以下のような、非常に現実的なスケール感の家訓を残したところにもあります。
一、碁、将棋など勝負事は一切やるな。
一、質屋、金貸しは孫子の代までやるな。
もっともな内容ですが、家訓にする必要があったのかという疑問も。
質屋経営失敗のトラウマかもしれませんね。
その後、中島は鉄砲火薬売買人免許を取得し、「中島鉄砲火薬店」を開業したそうです。
きょうのまとめ
中島登についていかがでしたでしょうか。
中島登とは?
簡単にまとめると
① 局長・近藤勇の密命を受けて入隊し、副長・土方歳三と共に最後まで戦った新選組隊士
② 新選組の貴重な記録『戦友絵姿』と『覚え書』を残した人物
③ サムライの後は商人としての道で努力を続けた男
と言えるのではないでしょうか。
その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
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