幕末の時代、幕府の重臣に列せられ、「日米修好通商条約の調印」「大政奉還」などの重要局面に携わった
永井尚志。
長崎海軍伝習所にて、日本海軍の礎を作ったその人でもあります。
こう見るとかなりすごい功績の持ち主に映りますが、その実、もとは幕政におよそ関われない旗本の身分でした。
そこからどのようにして、尚志は出世していったのか?
永井尚志とはどんな人物だったのか、その生涯を通して見ていきましょう。
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永井尚志はどんな人?
- 出身地:江戸麻布・奥殿藩邸
- 生年月日:1816年12月21日
- 死亡年月日:1891年7月1日(享年76歳)
- 旗本から幕臣に列せられ、「日米修好通商条約の調印」「大政奉還草案の作成」などの要所を担った人物。戊辰戦争では最終局面の函館戦争まで粘り、幕府への忠義を尽くした。
永井尚志 年表
西暦(年齢)
1816年(1歳)江戸麻布の藩邸にて、第5代三河奥殿藩主・松平乗尹とその側室の子として生まれる。
1818年(3歳)父・乗尹が死没。以後、家督を継いだ義兄・松平乗羨の養育を受ける。
1840年(25歳)旗本・永井尚徳の養子となる。
1847年(32歳)幕府の軍事機関・小姓組番士に就任。
1851年(36歳)幕府の学問所・甲府徽典館の学頭(校長)となる。
1853年(38歳)幕府から目付(旗本や御家人の勤怠管理・監視を担う職)に任じられる。
1854年(39歳)長崎海軍伝習所の総監理(所長)に就任。長崎製鉄所を創設する。
1858年(43歳)勘定奉行を経て、外国奉行に任じられる。日米修好通商条約の調印を行う。
1859年(44歳)軍艦奉行に任じられるも、将軍継嗣問題で対立した井伊直弼に免職される(安政の大獄)。
1862年(47歳)京都町奉行に就任。
1864年(49歳)幕府から大目付(大名や朝廷の監察を担う。目付の上位職)に任じられる。
1867年(52歳)若年寄(最高機関の老中に次ぐ重役)に就任。大政奉還草案を作成する。
1868年(53歳)戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いを経て免職。蝦夷地(北海道)へと拠点を移し、函館奉行に就任する。
1869年(54歳)弁天台場の守備を担うも兵糧の枯渇により降伏。投獄される。
1872年(57歳)保釈され明治政府に出仕。開拓使御用掛を経て、左院小議官に任じられる。
1875年(60歳)元老院権大書記官に任じられる。
1891年(76歳)従五位の位階を授けられる。同年7月1日死没。
青少年期
永井尚志が相続した永井家は、家格としては旗本に位置する下級武士です。
しかしそもそもの生まれは藩主の家系で、永井姓を名乗るようになるのにもいろいろと事情があったようですよ?
三河奥殿藩主の家系に生まれる
1816年、永井尚志は第5代三河奥殿藩主・松平乗尹とその側室の子として、江戸麻布の藩邸にて生を受けます。
藩主の家系に生まれたことは恵まれているように思えますが、実のところ尚志が生まれたのは乗尹も晩年のころで、藩主の座はすでに義兄・松平乗羨に譲られていました。
尚志が家督を相続できないことは、生まれながらにして決まっていたのです。
間もなくして乗尹は亡くなり、以降、尚志は乗羨の養育を受けることに。
幼少から学問に対する志しが高く、特に蘭学を好んで独学で身につけていったといいます。
学の高さを買われ、旗本・永井尚徳の養子に
蘭学を身につけ、西洋事情にも明るくなっていた尚志はその学の高さを買われ、25歳のころ、2000石の領地を有する旗本・永井尚徳の養子となります。
下級武士ではあるものの、これでそれなりの家格を継げることが保証されたわけですね。
そして尚徳の期待した通り、以降も尚志は学の高さを存分に発揮していきます。
32歳のころには幕府の軍事機関である小姓組に属し、そのかたわら幕府直轄の教育機関・昌平坂学問所に学びます。
そして36歳になると、昌平坂学問所の姉妹校にあたる甲府徽典館の学頭(校長)に。
身分に恵まれずとも、学問に励み続けた勤勉さを示すようなキャリアですね。
「安政の改革」で幕臣に!
1853年のペリー来航に伴い、海防強化を迫られた老中首座・阿部正弘は、幕府の体制をこれまでと大きく変える「安政の改革」を行います。
それまで、幕政に携わる武士は石高1万石以上を有する大名からで、尚志のような下級武士に声がかかることは、およそありませんでした。
しかし阿部は日本の危機に際し、身分を問わずに優秀な人材を登用していくという、前代未聞の政策を試みるのです。
学が高く、西洋事情にも精通していた尚志は、ここで幕臣として採用されることとなります。
長崎海軍伝習所・総監理に就任
幕臣となった尚志は、目付の役職を経て、1854年に長崎海軍伝習所の総監理(所長)に任じられます。
尚志が就任してからの4年間、ここで学んだ訓練生の数は200人。
のちに築地の訓練機関・講武所内の軍艦教授所にて教鞭を執ることとなる榎本武揚も、このうちのひとりです。
さらにこの時期、尚志は軍艦の造船を担う長崎製鉄所を創設しました。
人材育成と同時に、造船技術の確立もまた急がれたわけですね。
長崎海軍伝習所は日本海軍の前身。
その礎を築いたのが永井尚志だったのです。
外国奉行として日米修好通商条約に調印
長崎での活躍が評価された尚志は1857年になると江戸に呼び戻され、勘定奉行、外国奉行の役職を歴任します。
ここで特に目覚ましい活躍が見られたのは外国奉行として。
ロシアやイギリス、フランスとの交渉を担ったほか、大老・井伊直弼の命により日米修好通商条約の調印を行っています。
ただこのあとの将軍継嗣問題で、一橋慶喜を支持したことから、徳川慶福を支持していた井伊と対立。
これによって免職され、幕府を去ることとなってしまいます。
このとき免職された人員は尚志だけに留まらず、一橋派の人間は井伊主導の元ことごとく弾圧されていきました。
この事件を「安政の大獄」といいます。
京都奉行として復活
安政の大獄で大弾圧を行った井伊は多くの武士から反感を買い、1860年に暗殺されてしまいます(桜田門外の変)。
これを経て、尚志も再度幕府へと戻れることになり、1862年、京都奉行に就任。
京都の行政を司っていくこととなります。
攘夷派の排斥を主導
京都奉行としては
・1864年「禁門の変」
というふたつの事件に際し、幕府の代表となって、朝廷との交渉役を務めました。
これらは長州藩を中心とする攘夷派を京都から排斥した事件で、尚志はその主導者だったわけです。
(※攘夷派:外国と条約を結ぶのではなく、武力で追い払おうという考えの人たち)
攘夷派は開国を推し進めた幕府とは真逆の意見をもっているため、政治に関わらせては危険と考えての判断でした。
さらに尚志はこのあとの長州征討にも赴き、藩に処罰を下す役目も担っています。
このころから、尚志は攘夷派に命を狙われる身となり、新選組の護衛が常に付き従うような状況になっていたのだとか。
なんというか、一番厄介な時期に京都を任されたのですね。
それだけ幕府での信用が厚かったということでしょう。
大目付・若年寄への大出世
京都奉行を経て、尚志は大目付、そして若年寄と、どんどん幕府での地位を高めていきます。
大目付は目付の上位職で、大名や朝廷の動きを監視し、重職に逐一報告するという役目でした。
そして若年寄というのは、幕政の最高機関・老中に次ぐ地位の役職。
旗本が若年寄に就任するというのは、前代未聞の人事だったといいますよ。
若年寄としては、大政奉還草案の作成という、これまた重要な役目を果たしています。
戊辰戦争
戊辰戦争においては、「鳥羽伏見の戦い」を経て、徳川家が駿府(静岡県)に移封となったのを受け、尚志も蝦夷地(北海道)へと拠点を移し、函館奉行を務めます。
このとき徳川慶喜はすでに将軍職を失い、謹慎処分に処されていましたが、それでも尚志は蝦夷地で抵抗を続けようとしたのです。
蝦夷地へ行くことを嫌い、逃げ出した幕臣も多いといいますよ。
弁天台場の籠城戦
函館戦争で政府軍と対峙した際は、弁天台場に立てこもり、籠城戦を展開しました。
しかし半月ほどで兵糧は枯渇し、降伏を余儀なくされることに。
このとき、長崎海軍伝習所出身の榎本武揚は別拠点の五稜郭を指揮しており、尚志はそちらの降伏も促したといいます。
こうして1869年6月、約1年半に渡った戊辰戦争は終結を迎えるのです。
投獄・黒田清隆の尽力
函館戦争で降伏し、捕えられた尚志は、榎本らと共に罪に問われ、東京兵部省の獄舎へと投獄されます。
当初の予定では、尚志はこのまま処刑されるはずでした。
しかし1871年には放免となり、保釈されます。
これは、函館戦争で政府軍の軍務官を務めた黒田清隆が、幹部を説得したためだといいます。
なんでも自身の頭を丸坊主にしてでも、尚志や榎本の放免を頼み込んだのだとか。
降伏の交渉をするなかで、黒田にも何か思うところがあったのでしょうね。
尚志はこのあと1872年から政府に出仕し、左院小議官、元老院権大書記官などの官職を歴任しました。
もともと敵方だった政府で働くようになったのは、自身の放免に尽力した黒田に報いるためだったといいます。
幕臣としても、戊辰戦争の最終局面まで忠義を尽くし、敵方から恩を受ければそれもきっちり返す。
晩年まで一貫して義理難い人だったのです。
きょうのまとめ
本来、幕政には携われない旗本の家柄にありながら幕臣に列せられた永井尚志。
関わった出来事を振り返ってみても、幕末の時代、ほんとに幕府の要所ばかりを任されていた人なのだな…と実感しますね。
最後に今回のまとめです。
① 永井尚志は「安政の改革」によって幕臣に登用され、長崎海軍伝習所の総監理、長崎製鉄所の創設などに務め、日本海軍の礎を築いた。外国奉行としては日米修好通商条約の調印も。
② 京都奉行に就任し、「八月十八日の政変」「禁門の変」「長州征討」など、攘夷派の排斥活動を主導。命を狙われる身となり、護衛には常に新選組が付き従った。
③ 戊辰戦争においては、最終局面の函館戦争まで政府軍と戦い、幕府への忠義を尽くした。敵方の黒田清隆の尽力で放免されると、その義理を返すため政府に出仕した。
尚志の出世を支えたものは生来の勤勉さと、なにより忠義に実直な人となりでした。
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