幼い頃から西郷隆盛と行動を共にした
村田新八は、
西郷が命を絶ったそのあと彼自身の命を終えました。
西郷隆盛を敬愛し、彼と共に幕末と明治の時を駆け抜けた薩摩出身の村田新八とは
どんな人物だったのでしょうか。
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村田新八はどんな人?
- 出身地:薩摩国鹿児島城下(現・鹿児島県鹿児島市)
- 生年月日:1836年12月10日
- 死亡年月日:1877年9月24日(享年42歳)
- 薩長同盟、戊辰戦争、江戸城無血開城に活躍した西郷隆盛の懐刀と呼ばれた男
村田新八 年表
西暦(年齢)
1836年(1歳)薩摩国鹿児島城下の加治屋町にて誕生
1862年(27歳)寺田屋騒動の煽動を島津久光に疑われ、喜界島へ流罪
1864年(29歳)沖永良部島に流されていた西郷隆盛とともに鹿児島に戻る
1866年(31歳)薩長同盟
1868年(33歳)戊辰戦争で小隊長として活躍
1869年(34歳)鹿児島常備隊の砲兵隊長任命される
1871年(36歳)岩倉使節団に同行しアメリカ、ヨーロッパを外遊
1874年(39歳)鹿児島の私学校の砲隊学校・章典学校の監督就任
1877年(42歳)西南戦争に出陣、のち自害
村田新八の生涯
薩摩国鹿児島城下加治屋町にて高橋八郎の第三子として生まれ、村田十蔵の養子となりました。
新八というのは通称で、本名は村田経満ですが、ここでは新八で通します。
薩摩藩には「郷中教育」と呼ばれる、武士階級の青少年のための町単位による教育制度がありました。
同じ地域の先輩が後輩を教える教育システムです。
新八は8歳年上の西郷隆盛に薫陶を受け、尊皇の志を持つようになりました。
寺田屋騒動で島流しに
1862年に寺田屋騒動が起きました。
当時の薩摩藩主・島津忠義の父・島津久光が倒幕派過激薩摩藩士の有間新七らを斬殺させた事件です。
これは1866年に起きた坂本龍馬襲撃の寺田屋事件とは別の事件です。
久光は事実上薩摩藩の指導者であり、公武合体路線を目指していました。
勝手な倒幕挙兵を画策した薩摩藩士は邪魔だったのです。
過激派藩士たちを煽動したと疑われた西郷隆盛と村田新八は、それぞれ沖永良部島と喜界島へ遠島となりました。
2年後流罪から許された西郷隆盛は、薩摩に呼び戻されますが、戻る際に喜界島に寄って村田新八を救出しています。
忘れられた存在の村田新八が本土に戻れたのは、西郷隆盛のおかげであり、彼はそのときの恩義を最後まで忘れませんでした。
そして彼は西郷の「懐刀」として生きていきます。
薩長同盟から戊辰戦争・江戸城無血開城
幕末の混乱の中、
・1868年戊辰戦争と江戸無血開城
が起きています。
村田新八は常に西郷隆盛の側近として、また薩摩藩の外交メンバーとして倒幕、新政府立ち上げに活躍しました。
明治新政府での活躍と決別
明治新政府においては、
・1870年西郷の推薦により宮内大丞(宮内省の役人)
を務め、さらに
・1874年に帰国
しています。
ヨーロッパ使節団における薩摩藩出身者は、大久保利通と村田の二人だけでした。
大久保は村田のことを高く評価し、将来彼の片腕になることを期待していたのです。
ところが村田が帰国すると、彼が敬愛する西郷隆盛は、征韓論(武力で朝鮮を開国しようとする主張)で、反対派の大久保利通・木戸孝允に敗れ、明治政府を去ってしまいました。
西郷が鹿児島に戻ったことを知ると、村田もまた政府を辞して西郷を追って薩摩に戻ってしまったのです。
村田としては、対立する西郷と大久保それぞれの考えをよく理解していました。
しかし、最後は西郷への情が勝ったのです。
村田新八の出した結論に大久保利通は大変ショックを受け、残念がったといいます。
村田は、薩摩で桐野利明や篠原国幹と共に私立学校を設立し、砲隊学校及び章典学校の監督となりました。
新政府には戻らないと決めたのです。
西郷に従った西南戦争参戦
明治政府の政策は、新政府を打ち立てた功労者であるはずの士族たちに対して厳しいものでした。
禄を減らされ、特権だった苗字と帯刀を取り上げられた士族。
徴兵制度で誰でも軍人になれる時代となりました。
そんな時、不満が募った薩摩士族が挙兵したのが、1877年に起きた西南戦争です。
薩摩のカリスマ的存在だった西郷は、当初戦争へは消極的でした。
しかし、政府側の大久保利通のやり方に怒り、義憤を感じて最大の士族の反乱に立ち上がったのです。
薩摩軍挙兵の軍議において、村田は無言でした。
おそらく、彼は薩摩軍に勝てる見込みがないことを察していました。
しかし西南戦争が始まると、村田は敬愛する西郷の右腕としてためらわずに活躍しました。
二番大隊指揮長となり、熊本城攻撃では背面軍を指揮。
シルクハットにフロックコートの服装で戦いに臨み、戦闘の合間には西洋の曲を好きなアコーディオンで奏でたこともあるそうです。
西郷と村田、それぞれの死
しかし、谷干城が守る熊本城は落城せず、薩摩軍は田原坂の戦いでも大敗して薩摩軍の状況は悪化します。
なんとか鹿児島に帰還したものの、薩摩軍が籠もっていた城山も政府軍に包囲されました。
そんな中、村田新八は
と笑っていたそうです。
海外を見聞し、多くの戦いを生き抜いた村田は、薩摩軍の危機にありながら日本の将来を考えていたのでしょうか。
やがて西郷が被弾。
彼は城山で自決しました。
それを見届けた村田も岩崎口で最後に交戦し、自決しました。
それが、幼い頃から死ぬ時まで西郷隆盛と一緒に駆け抜けた、村田新八の最期でした。
西郷と大久保の間で揺れた村田新八
振り返れば、村田新八は西郷隆盛と行動を共にすることが、彼の使命であるかのような生き方をしました。
薩摩藩の指導者・島津久光よりも西郷隆盛の命令を優先し、戊辰戦争では、軍の編成替えがあっても、西郷の幕下にいるために自分の小隊の指揮を部下に任せたほどでした。
大久保利通に期待されていた村田ですが、西郷と大久保が対立したときには、西郷に従った村田。
西南戦争に加わらず、大久保に従って明治政府に仕えたままであれば、間違いなく高官となっていただけに、その死が惜しまれました。
彼らは村田新八をどう見ていた?
村田がどれほど期待されていたか、それがわかる人々の言動を見てみましょう。
そして、西郷と同時期に流刑になり、人々から忘れかけられていた村田新八を一緒に連れ出しています。
彼にとって村田新八は特別な理解者。
西郷の腹心と言われた桐野利秋や篠原国幹をしのぐほどの評価だったようです。
との言葉を残しています。
征韓論で争った時には、多くの人材が明治政府から流出しましたが、中でも西郷隆盛を追って村田までもが明治政府を去ったことを知ると、非常なショックを受けたということです。
村田新八の墓所
西郷隆盛ら西南戦争に敗れた薩摩軍2023人が眠る南洲墓地にあります。
桜島を望むこの墓地で、今も敬愛した西郷と仲間たちと一緒に眠っています。
<南洲墓地:鹿児島県鹿児島市上竜尾町2−1>
きょうのまとめ
今回は、西郷隆盛の影として、楯としてまた優秀な右腕として人生を全うした村田新八についてご紹介しました。
村田新八とは
① 幼い頃から薫陶を受けた西郷隆盛を敬愛した元薩摩藩士
② 幕末から明治にかけて幾多の戦いに参戦した武勇の人であり、明治新政府での活躍を嘱望された人物
③ どんな時も常に西郷隆盛につき従い、共に生涯を終えた「西郷の懐刀」
でした。
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