源頼朝に平氏討伐の挙兵を促した人物として、鎌倉幕府の成立に大きく貢献した僧侶
文覚。
頼朝の治世と直接関係があるのはこの部分だけですが、実はそれ抜きにしても、
「それ、ほんとなの?」
と言ってしまうような、突飛な逸話をたくさん残している人でもあります。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、市川猿之助さんが配役に決定。
言うなれば豪快だけど、言ってしまえば常軌を逸している…。
文覚とは、いったいどんな人物だったのか。
放送に先がけてしっかりチェックしておきましょう!
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文覚はどんな人?
- 出身地:摂津国渡辺(現・大阪市中央区)
- 生年月日:1139年
- 死亡年月日:1203年8月29日(享年65歳)
- 源頼朝に平氏討伐の挙兵を促した僧侶。全国行脚の荒行の末「刃の験者」の異名で呼ばれた。
文覚 年表
西暦(年齢)
1139年(1歳)摂津渡辺党の武士・遠藤茂遠の子として生まれる。
1156年(18歳)統子内親王に仕えるも、恋愛絡みの事件を起こし出家する。
1173年(35歳)神護寺復興のため、後白河法皇に荘園の寄進を強要。法皇の怒りに触れ、伊豆へ配流となる。
1178年(40歳)罪を許されて帰京。
1180年(42歳)平清盛の後白河法皇幽閉に怒り、源頼朝に挙兵を促す。
1183年(45歳)法皇、頼朝より各地荘園の寄進を受け、神護寺をはじめ、空海ゆかりの寺院復興に着手。
1199年(61歳)「三左衛門事件」への関与を疑われ、佐渡へ配流となる。
1203年(65歳)帰京するも、後鳥羽上皇の怒りを買い、対馬へ配流。その道中で没する。
文覚の生涯
以下より、文覚の生涯にまつわるエピソードを紹介します。
同僚の妻を殺めた後悔から出家
文覚は、摂津渡辺党の武士・遠藤茂遠の子として生まれ、俗名を遠藤盛遠と名乗りました。
渡辺党は摂津源氏の傘下にあたる武士団。
文覚も父の跡を引き継ぎ、鳥羽天皇の皇女・統子内親王に仕える武士として出仕していました。
そんな文覚が18歳のころ、とある事件が勃発します。
このころ、摂津渡邊橋の完成供養が行われ、その儀に出席していた文覚は、同席していた女性に一目惚れをするのです。
しかしこの袈裟御前という女性は、文覚の同僚である源渡の妻でした。
どうしても諦めきれない文覚は、彼女の母親に仲介を頼み、袈裟御前と直に話をする機会を設けることに成功します。
すると袈裟御前はなんと
「私には夫がいるゆえ、一緒にはなれません。どうしてもというなら、代わりに夫を殺めてください」
と、文覚に要求したというのです。
よほどヒドイ旦那だったのでしょうか?
この要求を受け入れた文覚は源渡の邸宅へ赴き、彼を斬り伏せます。
…そのはずだったのですが、後々、斬り落とした首を確認すると、それは源渡のものではなく、袈裟御前のものだったというのです。
この一件を悔いた文覚はいたたまれず、出家の道を選ぶことになったといいます。
ただ、この記述は『平家物語』にのみ登場するもので、実際の事情は詳しくわかっていません。
とはいえ、恋愛絡みのいざこざが原因で出家したという可能性は高いようですね。
全国行脚の修行
出家したあとの文覚の動向については、熊野那智での修行の逸話が有名です。
この地を訪れた文覚は
「修行とはどのようなものか」
と、小手調べのつもりで二十一日間、滝に打たれる修行を行ったといいます。
真冬で雪が降りしきり、氷柱ができるような最中で…。
当然のごとく、文覚は修行を終えるまでに二回も死にかけています。
そりゃそうでしょう…というか、なんで一回死にかけたとこでやめなかったの!?
という感じですが、なんでも文覚さん、川に流されてきたところを助けられて
「まだ五日しか経っていないのに!」
と、悔しがっていたらしいです。
もはや正気ではありません…。
結局、この二日後にまた死にかけるのですが、そのときは不動明王の使いが降りてきて助けてくれたのだとか。
こうして不動明王からもお墨付きをもらった文覚。
二十一日間の滝行のあとは千日間の那智籠りを経て、全国の名立たる寺院を訪れる旅に出ます。
あまりに厳しい修行を経て来たため、京都に戻るころには「刃の験者」という異名がついていたという話です。
これもあくまで伝承によるものなので、どこまでがほんとかはわかりませんが。
伊豆への配流で源頼朝と出会う
修行を終えて京都へ戻った文覚は、空海が生前暮らしたという高雄山神護寺へ入りました。
しかしこのころ、神護寺はすっかり衰退しており、あまりにボロボロな有様に、文覚は嘆き悲しんだといいます。
そして事件は1173年のこと。
文覚は後白河法皇の御所・法住寺殿を訪ね、神護寺復興のため荘園の寄進を迫ったのです。
このとき、宴会の最中だというのに、文覚はそれをさえぎってまで、法皇に訴えかけたという話。
これに激怒した法皇は、文覚を伊豆へと配流にしてしまいます。
伊豆といえば、「平治の乱」で源氏が敗北して以来、源頼朝が配流となっていた場所。
そう、ここで文覚と頼朝が出会うのです。
文覚は対面してすぐ、頼朝のことを、天下を治める器だと見抜き、その後何度も親交を交わしたといいます。
ちなみに、文覚の占いで、頼朝に大将軍の相が出たという話もあったりなかったり…。
頼朝の挙兵を促す
1180年のこと、罪を許されて帰京していた文覚は、平清盛が後白河法皇と対立し、法皇を幽閉してしまうという事態に直面しました。
これを受けて激怒した文覚は頼朝のもとへ走り、平氏討伐の挙兵を促したといいます。
このとき、
・頼朝の父義朝のドクロを見せて挙兵を迫った
という逸話もありますが、いずれも定かな説ではありません。
頼朝が挙兵を決断したのは院宣を得たからではなく、源氏の挙兵を危惧した平氏が頼朝のもとへ軍勢を差し向けているのを知ったから。
しかも義朝の首は、1184年に頼朝が菩提寺の勝長寿院を建てるまで、頼朝のもとへは届いていないはずなのです。
いろいろ脚色されている部分はあるものの、ともかく文覚が頼朝に挙兵を促したことはほんとうの話みたいですね。
このあとも、文覚は頼朝に京都の情勢を伝える役目を買っていたといい、挙兵の成果が上がるごとに、法皇と頼朝の信頼を得ていくことになります。
このふたりによって、神護寺には全国各地の荘園が寄進され、文覚はそこから得た収入で空海ゆかりの寺院を次々に修善していったという話です。
この辺りの功績から、高僧を表す上人の称号で呼ばれているのでしょう。
朝廷の権力抗争に巻き込まれて配流に…
頼朝と後白河法皇の計らいで、かなりの待遇を得ることになった文覚でしたが、その地位も長くは続きません。
1192年には法皇が、1199年には頼朝が相次いで没し、後ろ盾を失った文覚は、朝廷の権力抗争の煽りをもろに受けることになるのです。
この前年、朝廷では皇位継承争いが起こっており、文覚は次期天皇候補として、後鳥羽上皇の兄である守貞親王を推していたといいます。
しかし、新しく天皇になったのは、上皇の嫡子・土御門天皇。
これによって、天皇の外祖父である大納言・源通親が急速に力を増すことになります。
文覚と同じく守貞親王を推していた一条家の家人たちはいずれも、征夷大将軍となった頼朝の後ろ盾でその地位を保っていた身。
そう、皇位継承争いにも敗れ、後ろ盾であった頼朝も亡くなってしまい、一条家の朝廷における立場は一気に危うくなってしまったのです。
これによって勃発したのが「三左衛門事件」でした。
一条家の家人たちは朝廷で立場を追われることを危惧し、源通親の襲撃を計画。
しかし実行前に計画が明るみに出て、面々が逮捕されることになり、とばっちりで文覚までもが、佐渡島へと配流になってしまうのです。
この3年後、文覚は罪を許されて帰京するも、今度は後鳥羽上皇と折り合いがつかず、対馬へ配流されることに。
結局対馬へ辿り着くことはなく、その道半ばで生涯を終えることとなりました。
きょうのまとめ
一介の僧でありながら、とても只者とは思えない。
文覚の破天荒な逸話の数々には、武将の武勇伝にも劣らず、興味をかき立てるものがありましたね。
源頼朝や後白河法皇からひいきにされたのも、抜きんでて豪快なその人柄からだったのかもしれません。
最後に今回のまとめです。
② 熊野那智で二十一日間の滝行を行い、生死の狭間を経験。「刃の験者」と呼ばれる
③ 後白河法皇の怒りを買い伊豆へ配流、源頼朝と出会い頼朝が天下を治める器であることを見初めた
④ 頼朝に平氏討伐を促す。法皇の院宣を引き出した、源義朝のドクロを見せて頼朝を鼓舞した、などの逸話も?
⑤ 法皇と頼朝の計らいで荘園を得て、寺社の修善に乗り出すも、両者が没したことで地位を追われ最後は朝廷の権力抗争に巻き込まれ配流に
滝行の場面とか、登場するのでしょうか?
【参考文献】
国史大辞典
世界大百科事典
延慶本『平家物語』文覚発信譚の形成ー人物の形象をめぐってー|磯崎尚子
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900052003/
み熊野ねっと|平家物語6 文覚上人の荒行
https://www.mikumano.net/setsuwa/heike6.html
Wikipedia|文覚
Wikipedia|三左衛門事件
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