宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いは有名ですよね。
山口県下関市にある巌流島で決闘が行われたため
「巌流島の戦い」と呼ばれています。
この「巌流島の戦い」には色々な説が存在することをご存知でしょうか。
今回は宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いにスポットを当ててみたいと思います。
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宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いとは?
まずは宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った「巌流島の戦い」について、
一般的に語られている説を見ていきましょう。
巌流島の戦い
海に浮かぶ巌流島で、宮本武蔵と佐々木小次郎は1対1の決闘をすることになります。
しかし、約束の時間を過ぎても武蔵は到着しません。
結局、武蔵は2時間以上遅れて巌流島に到着しました。
わざと遅刻して、小次郎をイライラさせて、有利な状態で決闘に挑むという、武蔵の戦法だったのです。
小次郎の「物干し竿」と呼ばれる長い刀に対抗するために、武蔵は船の櫓を削った長い木刀で小次郎を倒しました。
これが「巌流島の戦い」です。
巌流島の戦いはなぜ起こった?
「巌流島の戦い」はなぜ起こったのでしょうか。
小倉藩の細川家で剣術指南役をしていたのが佐々木小次郎でした。
後に、二刀流の剣術指南役として宮本武蔵が召抱えられます。
二人の師弟や門下生たちの間では、どちらが強いかといういさかいが起こり、師匠である武蔵と小次郎が決闘することになったと言われています。
巌流島の戦いにはどんな説がある?
次は「巌流島の戦い」の色々な説についてご紹介します。
武蔵は遅刻していなかった?
「武蔵は2時間以上も決闘に遅刻して、佐々木小次郎を怒らせた」
と言うのが「巌流島の戦い」の定説です。
しかしこれは後に書かれた創作で、武蔵は遅刻していなかったと言う説があります。
ではなぜ「遅刻説」が定説となってしまったのかと言うと、
江戸時代の歌舞伎が、「遅刻説」を取り入れたためではないかと言われています。
だとしたら、武蔵にとってはいい迷惑ですね。
小次郎を殺したのは武蔵の弟子だった
実は小次郎を殺したのは、武蔵の弟子だったという説があります。
1対1の決闘という約束通り、小次郎はたった1人で巌流島に向かいました。
しかし武蔵は弟子数人を連れて行き、隠れているように命じました。
武蔵の一撃が決まり、決闘は武蔵の勝利で終わります。
しばらくして意識を取り戻した小次郎を、武蔵の弟子たちが袋叩きにしたのです。
これが本当だったら、武蔵めちゃくちゃ卑怯者です。
しかし残念なことに、この説が一番信憑性があるのでは?と言われています。
言われてみれば、武蔵は木刀で戦ったと言われているので、
即死ではなく、小次郎が後に意識を取り戻したとしても不思議ではありません。
小次郎はおじいちゃん?
次の説は、小次郎と武蔵の年齢の話しです。
小次郎の出生については、実は分かっていません。
「巌流島の戦い」の時の武蔵の年齢は、書物によってバラつきがありますが
17歳から29歳と言われています。
肝心の小次郎の年齢ですが、詳細は分かりませんが、
小次郎が入門していた剣術道場が盛んだった頃を参考にすると、
武蔵が生まれた頃には既に40歳前後だったと推測されます。
となると、小次郎は57歳から69歳ということになります。
今よりも平均年齢が低かった時代ですから、立派なおじいちゃんです。
おじいちゃん相手に決闘となると、武蔵が勝つのも当然と言えなくもないですね。
きょうのまとめ
宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いについて、いかがでしたか?
正々堂々とした決闘とは程遠い説が飛び出しましたが、
佐々木小次郎という人物はそもそも存在しない、という説もあります。
歴史っておもしろいですね。
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