新選組メンバー松原忠司とはどんな人物?【完全版まとめ】

 

新選組の凄さは、剣だけでなく、あらゆる方法で戦う術を知る男たちが集まっていたところ。

迫力があって、柔術に長けた松原忠司まつばらちゅうじは沖田総司や永倉新八たちとも違ったテイストの隊士のようです。

さて、どんな人物だったのでしょうか。

 

松原忠司はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:播州国(現在の兵庫県)
  • 生年月日:1835年
  • 死亡年月日:1865年10月20日(享年31歳)
  • 新選組での役職:四番隊組長、柔術師範
  • 武道の流派:関口流柔術
  • 愛刀:加州住藤島友重かしゅうじゅうふじしまともしげ
  • 墓:京都市下京区四条大宮西光縁寺
  • 剣客ひしめく新選組で、初期から柔術のエキスパートとして活躍するが、自ら犯した過ちが原因で最後は死に至った。

 

松原忠司 年表

年表

西暦(年齢)

1835年(1歳)播州国にて小野藩士の子として誕生

1863年(29歳)新選組の前身である壬生浪士組に入隊

1864年(30歳)池田屋事件にて活躍、褒賞金15両を賜る

1865年(31歳)四番隊組長・柔術師範となる。のち、切腹未遂の傷が治らず死去(諸説あり)

 

松原忠司の生涯

強くて優しい松原忠司は、新選組が誕生した当初から活躍していた隊士です。

「今弁慶」と呼ばれた男

1835年、播州小野藩士の子として誕生しました。

1854年に脱藩した彼は柔術に優れ、大坂に出て関口流柔術、もしくは北辰心要流ほくしんしんようりゅう不遷流ふせんりゅうの道場を開いていました。

1863年5月、新選組の前身である壬生浪士組最初の募集に応じて入隊しました。

その年に起きた八月十八日の政変では、仙洞御所前および禁裏御所南門の警備に当たった松原。

坊主頭に白鉢巻、脇には大薙刀を備えるという弁慶さながらの姿で臨み、「今弁慶」と呼ばれました。

1864年の池田屋事件では土方隊に属して屋外の警備を務め、戦功により報奨金15両を賜っています。

昇進と死

そんな活躍で松原は、1865年4月の組織再編で四番隊組長となり、柔術師範を兼任することになりました。

ところが、その4ヶ月後に死亡しています。

その死についての詳しい経緯は分かりません。

新選組の記録では「病死」

実は、松原は自分が殺害した浪士の妻を妾として囲っており、それを土方に厳しく咎められたと言われます。

その責任を取ろうと思いつめた彼は、切腹を謀って失敗。

幹部隊士から平隊士に降格しました。

一度は一命を取り留めましたが、のちにその傷が悪化して死亡。

それが真実か否かはわかりません。

しかし、何らかの理由で切腹が未遂に終わり、その後平隊士に降格させられたという点は多くの話で共通しているのです。

 

印象的なエピソード

松原の死は心中だった可能性も!?

切腹のときの傷が悪化して死に至った説以外にも、松原こそ夫の仇だと知った女が松原を殺し、のちに新選組隊士に殺されたなど、彼の死については諸説があります。

そして、もう一つ知られる彼の心中説のストーリーがあります。

温厚な性格だった松原ですが、ある夜お酒を飲んだ勢いで口論となってしまいます。

勢いで相手の浪人を斬り殺した後、酔いが覚めてことの重大さに気づきます。

浪人の身元を調べ、男の家族の元に遺体を届ける松原。

家にいた美しい妻に「浪人同士の斬り合いの助けに入ったが間に合わなかった」と嘘をついてしまいます。

良心がとがめる彼は、金を持ってその家を頻繁に訪ねるうち、浪人の妻と深い関係になってしまいました。

それが副長の土方歳三に発覚し、厳しく咎められます。

松原は、幹部としての責任を感じて切腹を謀ります。

しかし、隊士の篠原泰之進がいち早く発見し、一命を取り留めました。

平隊士に降格となった松原は、屯所から姿を消します。

隊士が松原を探しに女の家に来てみると、松原と愛人だった女が血の海の中で死んでいるのが発見されたのです。

それは、自分の罪の全てを女性に告白した松原と、それでも彼についていきたい女が二人の立場を悲観しての心中でした。

この話は作家の子母沢寛しもざわかんもしくは、新選組屯所・八木家子息の八木為三郎が『新選組物語』にて「壬生心中みぶしんじゅう」として創作したのではないかと言われています。

しかし、実は松原の墓に身元不明の女性の骨が一緒に埋葬されていることが判明しています。

その女性は誰でしょう? 

「壬生心中」は作り話ではないかもしれません。

親切者の松原

初期の新選組の屯所があった京の壬生村には、「親切者は山南、松原」という言葉が明治の頃まで伝わっていました。

松原忠司は、山南敬助とともに、特に温厚で親切な新選組隊士として地元の人々に好かれていた人物でした。

八月十八日の政変に出陣する際に、近藤や土方は甲冑が用意されているのに総長である山南には甲冑が渡されなかったことを怒った山南(この時ばかりは温厚な山南も怒ったわけですが)を松原がなだめたこともあったとか。

それにしても、山南も松原も、新選組では希有である温厚な性格の人物たちです。

彼らが戦いの中ではなく、新選組という組織によって死ななければならなかった<ところに、悲しみがつのります。  

きょうのまとめ

松原忠司についていかがでしたでしょうか。

松原忠司とは?

簡単にまとめると

① 典型的な「気は優しくて力持ち」タイプの新選組隊士

② 新選組だけでなく地元の人々にも好かれた四番隊組長

③ 一度の過ちと優しさがあだになり、自らの死の原因を作ってしまった男

と言えるのではないでしょうか。

その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku