マリー・アントワネットは、名門ハプスブルク家で
マリア・テレジアの15番目の子として誕生しました。
「頭の軽い残念な女性」という評価を受けながらも、現代人には親しみやすい王妃として人気の高い人物です。
38歳という若さで、「ギロチンの露と消えた」彼女の人生ってどんなものだったのでしょう。
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マリー・アントワネットとは?
マリア・テレジアが産んだ16人の子供の中で、15番目の子です。
政略結婚により、後のルイ16世の元へ14歳で嫁ぎ、フランス王妃となります。
ヴェルサイユ宮殿で華麗な王妃生活を満喫するも、1789年のフランス革命により人生は一変しました。
母マリア・テレジアは、フランスに嫁いでもアントワネットのことを気遣い、手紙で何度も叱咤激励した上で正しい道を進むよう諭しました。
アントワネットも、嫁いで間もないころの手紙に
お母様の末娘である私のことを、ヨーロッパで最も美しい王国のために選ばれた神のおぼしめしに、私は驚嘆せずにはいられません。
と書き綴っています。
ハプスブルク家皇女時代
生まれた時からアントワネットの運命は決まっていた?
政略結婚によってヨーロッパ中に領土を拡大した、ハプスブルク家。
アントワネットは、オーストリアとフランスとの協力関係を強固なものとするため、母テレジアによってフランスのブルボン家に嫁がせることが幼い時に決められていました。
このころは、ヨーロッパの国々が大きく変化した、ヴェルサイユ条約の調印が行われたころです。
※ヴェルサイユ条約:第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称。
勉強嫌いのアントワネット
金髪に青い目、透き通るように白い肌、立ち振る舞いも優雅で、宮廷内でもはアイドル的な存在でした。
テレジア譲りのダンスの上手さには定評があり、ハーブやチェンバロなどの腕前はプロ級で、12曲の歌曲も残しています。
テレジアは、政治的には教育制度の改定などで力をみせましたが、自分の子供たちの教育までは、時間の余裕も無くままならなかったようです。
アントワネットは要領が良く、家庭教師を自分の言いなりにします。
家庭教師は彼女を溺愛し、テレジアが宿題を出すも答えを丸写しさせていたという説もあります。
テレジアを悩ませたアントワネット
ルイ16世との結婚が決まった時、アントワネットの学力のなさに、テレジアは焦り四苦八苦しました。
しかし嫁ぎ先のフランスから教育係として派遣された「高位聖職者のヴェルモン神父」とは馬が合ったのか、1年という短い間に、フランス語を流暢に話し、文章も書けるようになっています。
その後も、神父はアントワネットの良き相談相手になりました。
テレジアはまだまだ足りないと、輿入れの2か月前にはアントワネットを自分の部屋に住まわせ、王妃としての心得などを徹底的にたたき込んだようです。
それでも不安を隠せなかったテレジアは、アントワネットを連れてマリアツェルへ巡礼に行き神頼みしています。
アントワネット出発の時
これでもまだ足りないと、アントワネットが嫁ぐ日に、毎月21日に読みなさいと、覚書をもたせています。
「毎朝お祈りを唱え、神の教えを説く本を読みなさい。」と、
長文の覚書にはフランスの歴史や知っておくべきことも書かれていました。
母としての焦りと、フランスとの繋がりを強いものにしなければという、アントワネットの政略結婚に必死だったテレジアの姿を見てとれます。
テレジアとアントワネットの手紙のやり取りがあったことは有名な話です。
テレジアは、アントワネットがフランスに到着する前から、既に不安になり手紙を送っています。
その手紙には、
最後の息を引き取るまで、貴女のことを心配している母の存在を決して忘れないように
と、ちょっとセンチメンタルになる内容も書かれていました。
堕落する王妃
フランス王太子との結婚
1770年4月21日にテレジアと涙の別れをし、アントワネットはフランスへ向かいました。
馬車は57台、250人の大行列でした。
中でも驚くのは、郵便局員が35名もいたこと。
テレジアが、手紙のやり取りを重要視していたことが分かります。
国民の拍手喝さいを受けてフランス入りしたアントワネットは、5月16日にヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で結婚式を挙げました。
王妃となるアントワネット
1774年5月10日の19歳の時、義父のルイ15世が逝去し、ルイ16世が即位しアントワネットはフランス王妃になりました。
若い二人が王と王妃になったことは、アントワネット自身もテレジアも不安に思ったようです。
この時、ヴェルサイユ宮殿内にある、アントワネットがどうしても欲しかった建物「プチ・トリアノン」を夫からプレゼントされました。
テレジア死す
ルイ16世に問題があり、23歳まで7年間も子供ができませんでした。
手術により解決し、アントワネットが23歳になってやっと長女マリー・テレーズが誕生しました。
その2年後の1780年に、残念ながら母テレジアが亡くなりました。
翌1781年に待望の長男ルイ・ジョゼフが誕生しますが、1789年6月4日に亡くなります。
後のルイ17世となる次男のルイ・シャルルは、1785年に誕生しています。
アントワネットは子煩悩で、プチ・トリアノンの庭園に造った畑で、子供たちと野菜を作るなど、熱心に子供を育てたようです。
民衆からの中傷の的となる
ヘアースタイルやシミーズ風の服など、アントワネットのファッションが流行したのもこの時代でした。
ローズ・ベルタンの高価なドレスを身にまとい、フェルセン伯爵と恋に落ち、浮世話が露呈するようになります。
一方ルイ16世は、アントワネットのみを愛し続け、愛人は一生作らなかったといわれています。
自由奔放な王妃の姿は民衆の怒りを買い、アントワネットは誹謗中傷の的になりました。
フランス革命により引き裂かれた家族
首飾り事件と民衆の怒り
ヴァロア王家の血族だと自称する、ラ・モット伯爵夫人が起こした詐欺事件「首飾り事件」が、1785年に起こりました。
1785年、革命前夜のフランスで起きた詐欺事件。ヴァロワ家の血を引くと称するジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人が、王室御用達の宝石商ベーマーから160万リーブル(金塊1t程度に相当する)の首飾りをロアン枢機卿に買わせ、それを王妃マリー・アントワネットに渡すと偽って騙し取った。典型的なかたり詐欺。(引用:Wikipedia)
これにより、ただ騙されただけといわれている「ロアン枢機卿」を、バスティーユに投獄しました。
聖職者であるのに放蕩三昧のロアンは、以前からアントワネットからひどく嫌われている存在だったのです。
裁判となり、ロアンを民衆はかわいそうな被害者といい、アントワネットには聞き捨てならない批判の言葉を浴びせました。
3日後には本当の犯人の、ラ・モット伯爵夫人が逮捕されています。
もちろんロアンは無罪となり、民衆からの万歳三唱の声が響きました。
アントワネットは民衆からのあまりの仕打ちと悔しさに泣き崩れたといわれています。
妻を愛していたためか、ルイ16世はロアンを無罪にした裁判官を解雇し、ロアンを修道院に隠居させました。
このルイ16世の態度は、民衆はもちろん貴族階級からの信頼も失い、フランス革命へと繋がったといわれています。
フランス王家にとって最も不名誉なスキャンダルとなりました。
更に王家を襲う凶作騒動
1787年は秋の長雨で凶作、翌年は北フランスで雹(ひょう)が降り穀物が打撃を受けたのです。
という、アントワネットが語ったとして広まった、有名な不況が起こりました。
本当に言ったのは、アントワネットではなく別人だといわれています。
1789年の春は、パン値が高騰し各地で「パンをよこせ」と暴動が起こりました。
パンの値が上がると世間はものを買い控え、その連鎖が不況を招いたのです。
失業者は増え、パンの値は人々の収入の半分にまで跳ね上がりました。
もちろん政府に対する不満は募るばかり。
政府もこの不況をなんとかせねばと、庶民の税収を上げ、貴族たちの直接税は免除するなどの悪政が行われました。
起ってしまったフランス革命
1789年7月14日に、民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が起こりました。
じっとして館で怯えながらバスティーユ行進の様子を伺う王一家と、扉を必死に抑える廷臣たちとの姿は絵画にも描かれています。
10月5日には、パンを求めて押し寄せる女性たちがヴェルサイユ宮殿を襲った「十月事件」が起こり、王一家はチュイルリー宮殿に移りました。
亡命を企てる王一家
王一家は、アントワネットの愛人だったフェルセンの力を借り、オーストリアへの逃亡を計画しましたが失敗に終わりました。
原因は、アントワネットにあるといわれています。
アントワネットは、家族と一緒に大馬車で逃げるといいはり、大量のワインを積み込みました。
しかも、フランス領内で食事と散歩を楽しむという危機感のない亡命だったようです。
アントワネットの浪費度は?
アントワネットの浪費ぶりは、国家を揺るがすほどではないものの凄まじいものでした。
衣装代は、約10億で1着6千万円もするものを着ていたとか。
プチ・トリアノンの敷地内に、イギリス庭園を造るため、6億円ものお金が使われたようです。
お金をかけた庭園で、子供たちと農業体験を楽しんでいたなんて、やっぱり贅沢感は否めません。
こんな生活ぶりを見せつけられた庶民たちは、怒って当然ですよね。
「外国から来た女が身のほども知らずに」
と口々に噂をしました。
亡命失敗でパリ送りになる王一家
オーストリアとの国境付近のヴァレンヌで捕まってしまい、逃亡は終わりました。
25日にパリに送られ、軟禁されています。
逃亡事件から10か月後には、オーストリアが革命に干渉し戦闘態勢に入りました。
アントワネットは、ここでもオーストリアへ情報を流していると濡れ衣を着せられています。
これは、庶民の噂でとどまらず国民全体の怒りに代わります。
ギロチン台へと向かった王一家
ルイ16世の処刑
1792年12月11日には、ルイ16世の裁判が始まりました。
翌1月21日に、ルイ16世はギロチンの刑に処せられています。
この時からアントワネットは喪服で過ごすようになり、「カペー家の寡婦」と呼ばれるようになりました。
1793年7月3日に、1時間も抵抗するも聞き入れられず、息子のルイ17世とアントワネットは引き裂かれます。
タンプル塔で暮らすアントワネットの、一人ぼっちの戦いが始まります。
塔から見える息子が散歩する姿だけが、生き甲斐でした。
アントワネットの裁判が始まる
8月1日には、パリでも観光地となっている、コンシエルジュリに移送されました。
10月14日に公開開廷が行われます。
裁判でやっと息子と会えた時、息子から発せられた言葉は、アントワネットの心を打ち砕きました。
「母と叔母のエリザベトに性的虐待を受けた」
と最愛の息子に、革命裁判の法廷で驚愕の証言をされたのです。
虐待については、偽りだと言われています。
ギロチンの露と消えたアントワネット
1793年10月16日に死刑が確定し、即日、革命広場でギロチンによる処刑が行われました。
革命広場へと向かうアントワネットを乗せた荷馬車には、民衆から容赦のない罵声を浴びせられました。
ギロチンの後は、2週間死体をそのまま放置され、11月1日に遺体はマドレーヌ寺院の共同墓地に埋葬されました。
ギロチン台に上る前のアントワネットは、身なりを整え、フランス王妃という威厳をみせようと堂々たる行動だったようです。
王妹のエリザベトも、1794年5月9日に処刑されました。
アントワネットの息子ルイ17世は、1795年6月8日にタンプル塔で衰弱死しています。
娘のマリー・テレーズは、アングレーム公ルイアントワーヌと結婚を許され、慎ましながら幸せだったようです。
きょうのまとめ
マリー・アントワネットの生き方は、18世紀の「本物の王妃」の肖像だったのではないでしょうか。。
マリー・アントワネットは、フランスが「国は王のためにある」から「国は国民のためにある」となった転換期の犠牲者といえます。
イギリスの元ダイアナ妃となぜか、重ねてみてしまうのは私だけでしょうか?
現在もマリー・アントワネットが愛されるわけは、彼女がフランス王妃であるという威厳をもち続け、ギロチン台の上でも堂々としていたという、彼女の生き方からだと思います。
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