前田利家の槍はどんな物を使っていた?

 

前田利家といえば「槍の又左(またざ)

と言われるほど槍の腕で有名な武将です。

そんな利家が使う槍はどんな物だったのでしょうか?

 

前田利家の武勇伝

槍働きで出世した利家

まずは前田利家が槍の又佐と言われるエピソードを紹介します。

前田利家は尾張国荒子村(現在の愛知県名古屋市)で生まれます。

10代半ばで小姓として織田信長に仕え始めます。

信長の家臣となった時期は織田家が分裂していました。

兄の信長と弟の信勝とで後継者争いをしていたのです。

ほどなく少年の利家は織田家同士の戦いに信長の軍勢で出陣します。

天文21年(1552年)に起きた萱津(かやづ)の戦いで利家は槍で、敵を倒し首を挙げます。

初陣から強い武将として才覚を開花させた利家は織田家の戦いで利家は武功を挙げて行きます。

その武功を認められて信長直属の部隊である赤母衣衆の一員になります。

利家はまさに槍働きで出世の道を切り開きました。

槍の又左

赤母衣衆の一員となれた利家ですが、信長が気に入る茶坊主の十阿弥(じゅあみ)を利家が殺害してしまいます。

その事件で利家は織田家から出仕停止と呼ばれる半ば追い出される処分を受けてしまいます。

浪人のようになってしまった利家ですが、桶狭間の戦いや美濃の斎藤家との戦いに独断で出陣します。

織田家の為に懸命に戦う姿から信長は利家の帰参を認めます。

復帰した利家に活躍の場が訪れます。元亀元年(1570年)に起きた姉川の戦いです。

ここで利家は浅井助七郎と言う武将を討ち取り信長から

日本無双の槍」と褒められます。

石山本願寺との戦いでは春日堤で敗走する織田軍の中で踏み止まり戦い続けました。

こうした戦場での武勇から「槍の又佐」の名が現在も、伝わっているのです。

 

前田利家の使った槍は?

槍を比較する

戦国武将で槍の名手は何人も居ます。その得物である槍も専用の物があります。

・徳川家康の家臣である本多忠勝は蜻蛉切(とんぼきり)

・豊臣秀吉の家臣である加藤清正は片鎌槍(かたかまやり)

・福島政則が持っていた日本号

・結城秀康の御手杵(おてざね)

など槍の名手や強い武将は自分の槍を持っています。現在では博物館などに実物やレプリカなどで残っています。

では槍の又左こと前田利家はどうでしょう?

残念ながら前田利家が使った槍は現存していません。

槍の名前も記録が無く「幻の存在」となっています。

利家の槍はどんな長さなのか?

伝えられる利家の槍はどんな物なのか?

長さでは三間半(6.3メートル)の槍を使っていたと、言われています。

これは他と比べて長い物です。多くの槍が二間(3.6メートル)の物が多いとされています。

それと比べると長さの違いが分かります。

槍使いで有名な武将の槍と比べてみます。

・本多忠勝の蜻蛉切は6メートル

・結城秀康の御手杵は3.8メートル

・加藤清正の片鎌槍は2.5メートルから3メートル

・福島政則の日本号は3メートル

利家が6メートルの長さの槍を使っていたとしたら、それは他の武将よりも長い物を使っていた事になります。

しかし利家は騎馬に乗る武将でもあり、馬の上では長い槍は使うのは難しいとされています。

長いと揺れる馬上では槍の重さもあって振り回すなど使いづらいからです。

そうした理由から利家が6メートルもの長い槍を使う武将なのか疑問もあります。

 

きょうのまとめ

利家が6メートルもの長い槍を持っていたかは定かではありません。

長い槍を使っていた理由として利家の身長が180メートルほどの高い身長だったと言われているからです。

背の高さから体の大きさに合う長い槍が必要だったと言う説があるのです。

しかし本当に身長は180センチなのか?

利家自身の姿も定かではない部分もあります。

しかし初陣から槍で活躍した利家の武勇は得物である槍が残って無くても、

その名前すら分からなくても、確かな事実なのです。

 

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