前田利家はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

槍の又佐として武勇を称えられ、戦国一の律儀者として称えられる、

前田利家とはどんな人物なのでしょう?

前田利家の生涯を通して紹介します。

 

前田利家はどんな人?

  • 出身地: 尾張国(現在の名古屋市)
  • 生年月日: 1537年
  • 死亡年月日: 1599年3月3日(享年 62歳)
  • 加賀百万石を築いた織田家の武将であり豊臣家の重臣にもなった

 

前田利家 年表

年表
西暦(年齢)

1537年(1歳)12月尾張荒子村で生まれる(幼名、犬千代)

1552年(12歳)小姓として信長に仕える

1558年(22歳)まつと結婚

1559年(23歳)拾阿弥を殺してしまい織田家から追放

1561年(25歳)織田家に戻る事を許される

1562年(26歳)長男の利長誕生

1569年(33歳)利家が荒子城主の前田家の跡を継ぐ

1570年(34歳)姉川の戦いと春日井堤の戦いで活躍

1575年(39歳)越前国府中城主になる

1581年(45歳)能登一国の大名となる

1583年(47歳)賤ヶ岳合戦で柴田軍に味方するも途中で戦場離脱。加賀国の領地加増で金沢城に入る

1584年(48歳)佐々成政との戦いが起こる

1585年(49歳)成政が降伏により、領地が加賀・能登・越中に広がり100万石となる
                                                         
1590年(54歳)小田原の陣へ北陸軍団の総大将として出陣。東北地方の検地を行う

1597年(61歳)豊臣秀頼の守役になる

1598年(62歳)五大老の一員となる。家督を利長へ譲る

1599年(62歳)3月に死去 

 

利家の生涯

誕生と信長との出会い

前田利家は天文6年(1537年)に、

尾張国の荒子村(現在の愛知県名古屋市中区荒子町)で生まれました。

幼名を犬千代と言います。

父親は荒子城の城主である前田利春で、利家は四男にあたります。

城主の跡継ぎではない利家は、前田家が仕える織田家へ小姓として送り出されます。

この時に利家は「 信長 」と出会います。

信長は「 うつけ 」と言われた気性の荒い性格です。

利家も小姓になる前にはケンカが多い荒い性格でした。

似た者同士で信長は利家を気に入り、利家を信長の傍で他の武将との連絡をする赤母衣衆(あかほろしゅう)と言う部隊の隊長にまで出世させます。

赤母衣衆: 信長に近侍する家臣(馬廻、小姓)から選り抜かれた二つの集団の一方の名称であり、もう一方が黒母衣衆である。定数は黒赤共に10名。

永録元年(1558年)に22歳の利家は12歳の「 まつ 」と結婚します。

利家の人生は順風満帆に進んでいました。

 
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織田家追放から許されるまで

信長のお気に入りとして身を立てた利家でしたが、その地位を失う大失敗をします。

信長が気に入る茶坊主の拾阿弥(じゅあみ)と利家はケンカになり、なんと拾阿弥を利家は殺してしまいます。

信長は怒り利家を追放。気性の荒い性格が今度は災いしたのです。

この追放の時に利家の助命を信長に求めて助けたのが柴田勝家と森可成(もりよしなり)でした。

追放された利家は、まつと子供(長女の幸)を荒子城へ預け一人放浪します。

熱田神宮(あつたじんぐう)の神職の一族である松岡家などに居候をしながら利家は機会を伺います。

信長の許しを得ようと桶狭間の合戦(永録3年1560年)にて、

織田軍に加わり自慢のの腕で奮闘しますがなかなか許されません。

それでも利家は何度も単独で織田軍に馳せ参じて戦います。

信長が利家の働きを認めたのは「 斎藤家で豪傑と名高い足立六兵衛を討ち取った 」時でした。

利家は追放から2年後にようやく許されたのです。

前田家を継ぐ

利家が放浪中に前田家では、利家の父親である利春が亡くなり、長男の利久が荒子城主の跡を継いでいました。

しかし、利久は信長により城主を利家に変えられます。

理由としては「 利久が病弱で城主として相応しくない 」と信長が判断したと言われます。

信長により前田家の跡を継いだ利家は、元亀元年から信長にとって一番の激戦の時期である戦いの日々を送ります。

その活躍ぶりは二つの合戦で伝説になっています。

元亀元年からの浅井家・朝倉家との合戦、「 姉川戦い 」では浅井家の重臣である浅井助七郎を討ち取り、石山本願寺との「 春日井堤の戦い 」では敗走する味方の中で一人、堤の上で踏み止まり戦う活躍をします。

槍の又佐 」と呼ばれる本領を利家は発揮したのです。

 
利家、自慢の槍についてはこちら

 
鰻パワー?!利家の兜は変わっていた

柴田勝家から羽柴秀吉へ

本能寺の変で織田信長が明智光秀に倒されると利家の置かれた状況は変わります。

信長亡き後の織田家を継ぐ後継者を決める清須会議で、羽柴秀吉と柴田勝家は対立します。

その対立が賤ヶ岳の戦い合戦(天正11年1583年)にまで激化すると、利家は「 親父殿 」と慕う柴田勝家に味方して秀吉と戦う事になります。

しかし、利家は合戦の最中に軍勢を戦場から引き揚げてしまいます。

利家の離脱で合戦は秀吉の勝利に終わります。

勝家は本拠地である北ノ庄城(きたのほうじょう)へ戻る前に利家の居る府中城へ寄りました。

しかし、勝家は利家を責めませんでした。勝家は利家の苦悩を知っていたのです。

利家にとって勝家は拾阿弥事件で助命嘆願してくれた命の恩人です。

しかし、秀吉は追放される時より前から夫婦同士の付き合いをする仲の良さでした。

どちらとも戦いたくない利家の本心を勝家は知っていたのです。

そして利家は秀吉の軍門に下り豊臣家の家臣となります。

 
利家が過ごした金沢城についてはこちら

豊臣家の重臣に

柴田勝家が秀吉に敗れて滅び、その翌年には佐々成政(さっさなりまさ)との戦いが起きます。

成政が降伏した天正13年(1585年)には、能登・加賀・越中の三カ国に領土は広がりました。

その三カ国で利家は100万石の大名になります。

そんな大大名となった利家は豊臣家での待遇は重臣並みでした。

関東の北条家を攻める小田原の陣では、上杉景勝や真田昌幸などの諸将をまとめる北陸軍団の総大将を任されます。

利家が戦に出るのはこの時が最後でした。

その後は秀吉の側近として、豊臣家の重臣としてより重要な人物となります。

朝鮮出兵の時に利家は御伽衆(おとぎしゅう)となって秀吉の傍に仕えます。

御伽衆: 主君に召し出されて側近として仕え、政治や軍事の相談役となり、また武辺話や諸国の動静を伝えたり、世間話の相手も務めた。

更に秀吉の息子である秀頼の養育をする守役となり利家と秀吉の仲は深まります。

秀吉は利家を信頼し慶長3年(1598年)には、豊臣家を支える大名衆である五大老の一人に選ばれます。

五大老に利家が就任してすぐに秀吉は亡くなります。

利家は秀吉から秀頼を頼むと遺言を託され、その遺言を守ろうとします。

利家は勢力を拡大して台頭する徳川家康の動きに異を唱え戦も辞さない態度に出ました。

家康はそんな利家と和解をし、対立を止めます。

60歳を越え病気がちの利家は豊臣家重臣としてでは無く、残る息子達の為に前田家を存続させる当主としての動きをしたのです。

慶長4年(1599年)3月に利家は死去します。

利家の死で遠慮する相手が居ない家康が、豊臣家を滅ぼして天下を取る時代の流れになったのです。

 

きょうのまとめ

前田利家はどんな人か簡単にまとめると

①槍での戦いに強く「 槍の又佐 」と称えられた

②「 律義者 」と呼ばれる人格の良さを称えられた

③拾阿弥を殺してしまうケンカ早い気の短さで一時は追放される逆境も

④東北地方での検地では、正確な数字を計算する「 算盤大名 」と言われる知性の持ち主

と言えるのではないでしょうか。

文武両道で性格も良い戦国武将として利家は激動の戦国時代で成長したのです。

これは柴田勝家の温情と秀吉との友好があったからこそかもしれません。

戦国武将としては忠誠心も放浪時に信長に認められるまで単独で戦場に出続けるほど高いです。

かと言って生真面目で実直な性格では無く、

賤ヶ岳の戦いでは複雑な思いに悩みながら、柴田から羽柴(豊臣)へ従う柔軟性もあります。

最期の時は豊臣家への忠誠よりも前田家存続を第一に家康との対決を避けました。

前田利家は戦国と言う一筋縄ではいかない時代を、自分の実力を良く知り乗り切った人物と言えます。

 
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