豊臣秀吉の天才軍師黒田官兵衛の後継ぎ、
黒田長政。
天下分け目の戦い、関ヶ原の戦いでは東軍第一の功績を挙げます。
徳川家康から52万3000石筑前国(現在の福岡県)を与えられました。
その後、福岡藩の基礎を築き、現在の福岡市繁栄に結び付いています。
大出世した黒田長政とはどんな人物だったのでしょうか。
どうぞ最後までご覧ください。
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黒田長政はどんな人?
- 出身地:播磨国(兵庫県南西部)
- 生年月日:1568年
- 死亡年月日:1623年(享年55歳)
- 関ヶ原の戦いで大活躍、福岡藩初代藩主として福岡市発展の基礎を築くいた人物
黒田長政 年表
西暦(年齢)
1568年(1歳)播磨国姫路城主、黒田官兵衛の嫡男として誕生。幼名は松寿丸。
1577年(9歳)豊臣秀吉の人質として、近江国長浜城に入る。
1578年(10歳)織田信長から父黒田官兵衛の謀反を疑われ、息子の黒田長政の処刑が命じられたが、竹中半兵衛の機転で救われる。
1582年(14歳)豊臣秀吉の備中高松城水攻めに従軍して、冠山城の戦いで初陣を飾る。同年、織田信長死後に豊臣秀吉に仕える。
1583年(15歳)賤ヶ岳の戦いで功を挙げて、河内国に450石の領を与えられる。
1587年(19歳)父黒田官兵衛と共に九州征伐に従軍。戦後、父子の功績をあわせて豊前国中津に12万5,000石を与えられる。
1588年(21歳)城井鎮房と和睦後、中津城にて酒宴の席で誅殺し、城井一族を殲滅。
1589年(21歳)父黒田官兵衛が隠居し家督を相続、同時に従五位下、甲斐守に叙任。
1592年(24歳)文禄の役に従軍。朝鮮へ渡海。
1597年(29歳)慶長の役にて朝鮮へ渡海。石田三成らと対立。
1600年(32歳)糸姫(蜂須賀正勝の娘)と離婚。栄姫(保科正直の娘・家康の養女)と再婚。関ヶ原の戦いに徳川方として参戦。直前に小早川秀秋や吉川広家ら西軍主力の毛利勢の調略に成功。一番の功労者として筑前名島(後の福岡藩)に52万3千石を拝領、実高100万石とされる。
1601年(33歳)豊前より筑前に入府。同年、手狭な名島城に代わる居城とすべく、福岡城を築城。
1604年(36歳)父・黒田官兵衛(如水)が死去。
1614年(46歳)大坂夏の陣では、徳川秀忠に従い参陣。
1623年(55歳)上京区報恩寺の客殿寝所にて病死。
親子で勝ち取った大大名の地位
黒田長政の父・黒田官兵衛は播磨国の姫路です。
地方豪族小寺氏に仕える無名の弱小武将の一人でしかありませんでした。
しかし、黒田官兵衛は織田信長、豊臣秀吉に仕え、黒田長政は徳川家康に仕えいずれも天下人を支えます。
結果、筑前の52万3000石の大大名にまで昇進するにいたりました。
特に黒田官兵衛は豊臣秀吉の天下人としての地位を支え、天才軍師とも言われています。
豊臣秀吉の天下取りには黒田官兵衛なしでは成しえなかったと言われるほどでした。
天才軍師!?黒田官兵衛。長政は父を乗り越えられた?
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父の盟友、竹中半兵衛に命を助けられる!
豊臣秀吉の天下取りを支えたのが、天才軍師黒田官兵衛と美濃国(岐阜県)の竹中半兵衛。
この2人は豊臣秀吉の参謀として恐れられ「両兵衛」、「二兵衛」と称されます。
黒田長政は幼いころ、この竹中半兵衛に命を救われています。
黒田官兵衛が織田信長から謀反の疑いをかけられ、息子・黒田長政の処刑を命じます。
しかし、盟友竹中半兵衛は
「自分がその処刑役を受ける」
と、織田信長に進言。
実際は黒田長政の身をかくまい、織田信長に処刑したと嘘の報告をします。
その後、黒田官兵衛の疑いが晴れ、織田信長は竹中半兵衛の機転に感謝したそうです。
黒田長政は父の盟友であり、かつ命の恩人竹中半兵衛を慕っています。
家紋や兜などは竹中半兵衛から譲り受けたものを使用し、関ヶ原の戦いでも身に着けていたそうです。
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関ヶ原の戦いで第一の功績、現在の福岡の繁栄を築く
黒田長政は石田三成と対峙し、関ヶ原の戦いでは徳川家康側、東軍に従軍します。
関ヶ原の戦いでは石田軍は主力の島左近を負傷させ、勝利における中心的な働きとなります。
また、小早川秀秋軍の東軍への寝返りは、戦い以前から黒田長政が用意周到に根回ししています。
この知略、武勇に対し、徳川家康から第一の功績者として褒め称えられました。
結果、12万石であった石高は、52万3000石の大幅昇級、筑前国(現在の福岡県)の大大名となりました。
その後、黒田長政は福岡城を築城し、城下町を整備、現在の福岡市の繁栄の基礎を作り上げました。
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きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
黒田長政についていかがでしたでしょうか。
黒田長政とは?簡単にまとめると
② 父の盟友、竹中半兵衛の機転により、命を救われた
③ 関ヶ原の戦いでは第一の功績を挙げ、現在の福岡の繁栄の基礎を築いた
と言えるのではないでしょうか。
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よろしければどうぞ御覧ください。
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