黒田長政の子孫は現在も続いている?

 

黒田長政は関ヶ原の戦いで最大の功績を残しました。

徳川家康から52万3,000石筑前国(現:福岡県)を与えられました。

その後、黒田長政の子孫は福岡藩の当主となりました。

今回は黒田長政の子孫についてお伝えします。

黒田長政は福岡の名付け親!

黒田長政が筑前国に入府後、城を築城したその場所は元々福崎という地名でした。

しかし、築城の際、黒田家ゆかりの地・備前福岡(岡山県)の名を取り、福岡城と名付けました。

その後、福岡藩、福岡市、福岡県とその名が使われるようになりました。

当時の福岡城内には10以上の大小の門、47基の櫓が並び、築城には7年の歳月を要したそうです。

築城名人である加藤清正は福岡城を高く評価し、次のように言ったそうです。

自身の城は3~4日で落ちるが、福岡城なら30~40日は落ちない

と賞賛したと伝えられています。

また長政は福岡城に普段使わない部屋を一室用意させました。

その部屋では月に3回、終日過ごし、自由に家臣から藩主に意見を言える機会を設けていたそうです。

黒田家が長く繁栄できた理由はこういった風通しの良い意見交換の場があったからかもしれません。

黒田家の危機、黒田騒動

黒田長政の二代目の黒田忠之はわがままで自分勝手な性格でした。

特に元和9年(1623年)父黒田長政が亡くなった後、その素行が悪化していきます。

家臣をむやみに打ち叩いたり、近臣を集めては毎日酒宴におぼれるようになりました。

長政を支え続けてきた筆頭家老の栗山大膳の意見も聞かなくなります。

忠之は人事にも好き勝手な振舞いをします。

自分の意見に素直な倉八十太夫という人物ををかわいがり、重臣の誰にも相談なしに家老にします。

倉十太夫の食禄は加増を重ね9000石にまで取り立て権威は藩随一になります。

さらには徳川幕府の意向に反し、軍力を増強させます。

軍船を建造し、幕府のとがめを受けます。

さらに、独断で新規に足軽200人を抱え、一銃隊を編成して十太夫の配下につけます。

当時、大名が勝手に戦力を増強することは禁止されていました。

寛永9年(1632年)、ついに家老栗山大膳は命をかけて、徳川幕府に公表します。

徳川幕府も黒田忠之に対し増強した戦力を取り上げ厳重注意を与えました。

また、徳川幕府は主君を直訴した栗山大膳も罰として奥州盛岡に配流することを決定しました。

この黒田騒動は最悪の場合、藩取りつぶし、栗山大膳切腹という可能性もある、大きな事件となりました。

最終的に比較的軽い罪で収まったのは不幸中の幸いだったのかもしれません。

黒田家は現在も続いている!

黒田騒動を乗り切った、黒田家。

その後も子孫を継承していきました。

しかし、黒田官兵衛の血統が受け継がれたのは5代黒田宣政まででした。

黒田宣政は子に恵まれず、6代は黒田長清の子・継高を養嗣子として迎えています。

その後も黒田家は継承を続け、現在16代まで当主は現存しています。

ちなみに、現在黒田家当主は黒田長高さんという方で不動産会社の代表を務めているそうです。

きょうのまとめ

黒田長政の子孫について見てきましたが、いかがでしたでしょうか

黒田長政の子孫については、

①黒田家は福岡の名付け親で福岡の繁栄に尽力しました

②黒田長政二代目忠之の代で黒田家存続の危機があった

③現在でも16代の黒田家は継承されている

と言えるのではないでしょうか。

黒田長政については、他にも色々な記事があります。

よろしかったらご覧になってみて下さい。










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