黒田長政は偉大な父官兵衛を乗り越えられたのか?

 

豊臣秀吉の天才軍師、黒田官兵衛

その2代目が黒田長政です。

黒田親子はいずれもキリシタンという、当時では珍しい親子でした。

今回は天才黒田官兵衛の背中を追い続けた黒田長政についてお伝えします。

 

九死に一生を得た、幼少時の黒田長政

黒田長政

黒田長政
出典:Wikiepdia

黒田長政は、1568年戦国の天才軍師黒田官兵衛の長男として姫路城に生まれます。

黒田官兵衛は当時9歳だった黒田長政を人質として、豊臣秀吉の元へ預けました。

黒田長政は人質の期間を経験しています。

さらに、当時豊臣秀吉の君主であった織田信長は黒田官兵衛の謀反を勘違いし、黒田長政を殺す命令を出します。

しかし、黒田官兵衛の親友であった竹中半兵衛によって助けられ、九死に一生を得ます。

信長亡き後、本能寺の変後は黒田官兵衛・長政親子はともに秀吉に仕えました。

 

改宗することになったキリシタン黒田親子

1587年に父・黒田官兵衛と共に、黒田長政もキリスト教の洗礼を受けてます。

しかしその直後、同年後豊臣秀吉は筑前箱崎(現在の福岡県福岡市)において「バテレン追放令」を出します。

バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味です。

バテレン追放令を受けて、黒田官兵衛と黒田長政も同様に改宗します。

このバテレン追放令は、主に以下の内容です。

・宣教師の国外追放と布教の禁止

・大名のキリスト教信仰は禁止

・一般の武士や庶民の信仰は自由

・貿易のためにポルトガルやスペインの商人が出入国するのは認める

「一般の武士や庶民の信仰は認めるが、大名の信仰が禁止」という内容でした。

まさに黒田親子が洗礼した年と同じでもあり、まるで黒田親子を意識したかの内容でもありました。

しかし、黒田官兵衛はキリスト教を心から改宗したのではないようです。

その証に黒田官兵衛が亡くなった後、黒田長政にキリスト様式による葬儀を遺言で残しました。

黒田長政はその遺言を受け、キリスト様式と仏様式の2通りの葬儀を実際に行っています。

 

天下分け目の決戦で大活躍した黒田長政

豊臣秀吉の死後、黒田長政は徳川家康に接近します。

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍として戦い、西軍に大ダメージを与えます。

小早川秀秋や吉川広家などの西軍の有力武将たちの寝返り交渉をする役目を見事果たしました。

また関ヶ原の戦い当日でも、東軍の切り込み隊長として石田三成の側近・島左近(島清興)を討ち取ります。

黒田長政はまさに関ヶ原の戦いで第一の功労者とも言われました。

その功績を称えられ、徳川家康から52万3000石筑前国を与えられました。

 

父黒田官兵衛の凄み

黒田長政は関ヶ原の戦いで戦功を挙げた後に、徳川家康から手を取って賞賛されました。

その功績を父・黒田官兵衛に報告した時です。

父黒田官兵衛は

黒田官兵衛
家康に取られた手ではない方の手で家康の首を取れる機会に何をしていたのか

と言ったそうです。

天才軍師、黒田官兵衛の凄さを表すエピソードの一つです。

 

きょうのまとめ

黒田長政と黒田官兵衛について見てきました。

黒田長政と黒田官兵衛については、

① 黒田長政は幼少期、人質の期間を経験した

② 黒田親子はいずれもキリシタン大名であった

③ 黒田長政は関ヶ原の戦いで最大の成果を残した

と言えるのではないでしょうか。

黒田長政については、他にも色々な記事があります。

よろしかったらご覧になってみて下さい。

 

黒田長政の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「黒田長政とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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