近藤勇の最期はどのようなものだったのか?命乞いをしたのか?

新撰組と聞けばまず思いつくのが、近藤勇、土方歳三、それに沖田総司でしょうか。

その新撰組で局長を務めたのは、近藤勇です。

彼は、江戸時代末期の武士で、新撰組局長から後に、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)の隊長に抜擢されています。

そんな近藤勇は1868年に無念の最期を遂げています。

聞くところによると命乞いをしたと言います。

今回は近藤勇の最期についてそれらの真実を調べてみましょう。

近藤勇の最後

新撰組とは

新撰組は、1863年に徳川家茂の上洛の警備に当たる組織「浪士組(ろうしぐみ)」から始まりました。

しかしこの「浪士組」は、幕府を守る者たちだけではなく、尊王攘夷を唱える者もいました。

このため、尊王攘夷派は江戸への帰還をし、それに反発した近藤勇や芹沢鴨(せりざわかも)らは京都に止まることとなり「浪士組」は分裂してしまいます。

当時京都守護職についていた会津藩主 松平容保(まつだいらかたもり)は、

京都の治安維持のために「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」を結成します。その中に近藤勇の姿もありました。

しかしこの「壬生浪士組」も近藤派と芹沢派に別れてしまいます。

その後、長州勢の残党狩りで名を挙げた「壬生浪士組」は、新たに「新撰組」と隊名を与えられました。

ここに近藤勇を隊長土方歳三を副隊長とする「新撰組」が誕生したのです。

その後、池田屋事件や禁門の変などに出動して手柄を上げています。

1867年「新撰組」は会津藩から独立し、幕臣として取り立てられました。

翌年旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽・伏見の戦いが起こり、

「新撰組」は会津藩とともに戦いますが、負傷した近藤勇を欠いた彼らは破れ江戸へ戻るのでした。

戊辰戦争と近藤勇の最期

江戸に戻った「新撰組」は「甲陽鎮撫隊」と名を改め、近藤勇もまた「大久保剛」へ改名しています。

会津で新政府軍と戦うべく隊士を募り227名にまで増加しました。

この時近藤は名前を「大久保大和」と再度変えています。

そんな時、新政府により近藤は捕らわれてしまいます。

政府軍に近藤の顔を知っているものがいたため「大久保大和」の名前を貫き通したのですが、近藤勇として捕縛されました。

土佐藩と薩摩藩の間で、近藤勇に対する処遇を話し合いました。

穏便に済ませようとする薩摩藩と違い、

坂本龍馬や中岡慎太郎暗殺の犯人だと信じて疑わない土佐藩は断固として処刑を望みました。

そして土佐藩が押し切り、中山道板橋刑場において近藤勇は斬首刑となったのです。

享年35歳でした。

この時切腹ではなく、斬首刑とされたのですから土佐藩の恨みはすごいものだったと思われます。

この処刑に際して、近藤勇が「 命乞い 」をしたと言います。

しかしそれは自分のためではありませんでした。

近藤と一緒に捕縛された二人の隊士がいました。野村利三郎(のむらりさぶろう)と相馬主計(そうまかずえ)です。

「自分ほどの大物を処刑できるのだから、この二人は生かしてほしい」

と嘆願したのです。

新政府軍はこの嘆願を受け入れました。二人の命は救われたのです。

きょうのまとめ

近藤勇という人を改めてすごい人物だったんだと感じます。

切腹も許されず斬首に処せられた近藤勇の最期は見事だったと言えるでしょう。

この時命を救われた二人は、その後土方歳三と落ち合い函館でその命を幕府のために捧げたのでした。

激動の幕末、己の信じる道を貫いた近藤勇とその盟友たちの、あまりにも潔い人生でした。










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