榎本武揚の家族と子孫にはどんな人が?あの有名俳優の名前も

 

榎本武揚(えのもと・たけあき)といえば、五稜郭の戦いでは明治新政府と戦って敗れた人物です。

榎本は、新政府軍から見れば敵軍のトップ。

極刑は免れないと思いきや、その才能と人柄を見込まれて助命されました。

その後は政府の要職を歴任し、歴史に名を刻むことになります。

そんな榎本武揚と血がつながっている人たちの中には、きっとすごい人物がいるのでは?

と思ったので、調べてみることにしました。

父親は伊能忠敬の元弟子だった

榎本武揚は天保7年(1836)、幕臣・榎本武規の次男として生まれました。

武規は榎本家に婿(むこ)に入って武規を名乗ったので、元の名を箱田良助といいます。

箱田良助は備後の国(現在の広島県)の庄屋※の子でしたが、兄と一緒に江戸に出ました。

庄屋とは江戸時代、村の政治を担当した人たちの中でも長にあたる人です。

  地域によっては「 名主 」「 肝煎(きもいり) 」と呼ばれたりします。

そしてなんと、伊能忠敬(いのう・ただたか)※の弟子として、測量に参加していたのです。

しかも、武揚の父親は伊能の一番弟子だったとか・・・・・・!

お父さんが日本地図の作成に貢献していたとは驚きですよね。

伊能忠敬は日本で初めて測量を行い、地図を作った人物として知られています。

  彼の死後、弟子たちの手によって『 大日本沿海輿地全図 』が完成しました。

伊能忠敬の死後、武揚の父は幕臣・榎本家の株を買い取ります。

当時は武士の身分をお金で買うことができたのです。

そして榎本家の娘と結婚し、榎本姓と「 武規 」を名乗るようになったといいます。

やはり武揚の実の父、やり手だったといえるのではないでしょうか。

ひ孫は武揚ともつながりの深いあの大学に

榎本武揚のひ孫には、榎本隆充さんという方がいらっしゃいます。

東京農業大学客員教授などを務められ、榎本武揚に関する書籍をいくつも出版されています。

さて、東京農業大学はその前身を徳川育英会育英黌農業科といいました。

実はこの徳川育英会育英黌農業科は、榎本武揚が創設していたのです。

何かしらの運命を感じますね。

ちなみに隆充さんは、武揚の子・武憲の孫にもあたります。

この武憲という人物は、榎本武揚の盟友としても知られている黒田清隆の娘・梅子と結婚しています。

俳優・石黒賢は武揚の兄の子孫だった

今回、榎本武揚の子孫について調べていく中で、私が最も驚いたのがこちらです。

榎本武揚には4つ年上のお兄さんがいました。

名前は榎本武與(武与とも)、幼名を鍋太郎といいます。

ちなみに、武揚の幼名は釜次郎といいました。

鍋と釜・・・・・・。

父親は鍋と釜があれば食うのに困らないだろうという理由で、息子たちにそう名付けたといわれています。

そんなことはさておき、鍋太郎の子孫の中には俳優の石黒賢さんがいました。

石黒さんのひいおばあさんが、鍋太郎の娘だそうですよ。

さらに調べていくと、石黒さんの父親は戦後初の日本人プロテニスプレーヤー・石黒修さんという方でした。

石黒賢さん自身もかつてはテニス部に所属しており、中学時代には秋篠宮親王と対戦したこともあるとか。

わぁ、なんだか私にはついていけないほど眩しい世界です。

きょうのまとめ

今回は榎本武揚の家族や子孫の方についてご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。

きょうのまとめですが、

① 父は伊能忠敬の一番弟子で、武士の身分を買って榎本姓を名乗った箱田良助

② 榎本武揚のひ孫は、武揚が創設に関わった東京農業大学の客員教授を務めている

③ 俳優の石黒賢さんは、榎本武揚の兄の子孫だった

といえるのではないでしょうか。

こちらのサイトでは他にも、榎本武揚や幕末に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味のある方は、ぜひご覧になってくださいね。










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