皇后というと、優雅な暮らしをしていたのではないかと思いますよね。
ですが奈良時代の光明皇后は、庶民たちの暮らしを良くしようと行動した人でした。
今回は、光明皇后がつくった悲田院と施薬院(せやくいん)について紹介します。
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仏教に帰依していた光明皇后
光明皇后は聖武天皇の妃。
聖武天皇といえば仏教の力で国を安定させようとし、
国分寺建立の詔や大仏建立の詔を出した人物として有名ですよね。
妃である光明皇后も聖武天皇と同様、仏教に篤く帰依していました。
そんな光明皇后が皇太子妃時代から取り組んでいたのが、病人や孤児たちの救済といった社会事業です。
これは仏教の慈悲の思想に基づくもので、730年には皇后宮職(皇后の日常生活を支えるために設置された役所のこと。)に
悲田院と施薬院を設けています。
悲田院・施薬院とは
それでは悲田院と施薬院とは、それぞれ一体どのようなものだったのでしょうか。
悲田院とは?
悲田院とは、貧しい人や孤児を収容・救済するための施設です。
「悲田」とは仏教思想において、慈悲の心で貧者などに施せば、
福徳を生み出す田となる、という意味だそうです。
光明皇后が設置する前にも、聖徳太子が四天王寺につくっていたと伝わります(悲田院・施薬院・療病院・敬田院の4つをつくったという伝説がありますが、定かではありません。)。
ですが723年、興福寺(藤原氏の氏寺のこと。光明皇后も藤原氏出身です。)に施薬院とともに置かれたのが最初とされています。
施薬院とは?
これに対して施薬院とは貧しい病人に対して、施薬・治療を行うための施設です。
光明皇后は私財を投じて諸国の薬草を集め、病人に施したといわれています。
そして、家では保養ができない人を悲田院に収容したのだそうです。
法華寺の浴室(からふろ)
さらに光明皇后は病人のために、法華寺(現在の奈良市)というお寺をつくっています。
法華寺では浴室と呼ばれるお風呂(今でいうところの蒸し風呂)がつくられ、
光明皇后は千人の垢を流したといわれています。
法華寺には今でも浴室があり、施浴体験が行われています。
さて、悲田院と施薬院は、光明皇后の代だけで終わりませんでした。
光明皇后の娘・孝謙天皇も、経済的な援助を行っています。
さらにのちに遷都した平安京にも設置され、室町時代ごろまで続いたといわれています。
きょうのまとめ
今回は光明皇后がつくった悲田院と施薬院について、簡単に紹介しました。
② 悲田院は貧しい人や孤児の収容施設のことである
③ 施薬院は貧しい病人に施薬・治療をする施設のことである
④ 法華寺にお風呂がつくられ、光明皇后は千人の垢を流した
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より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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