小松帯刀とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末の世において、明治政府を成立させた維新志士のひとり

小松帯刀こまつたてわき

家老であった彼は朝廷や幕府、諸藩との交渉を担い、薩摩藩の代表として新時代の訪れを支えました。

その功績は、あの坂本龍馬や西郷隆盛を凌ぐという話も。

…ふたりに比べて、あんまり名前聞いたことないけど!?

そんな名立たる面々も名君だと称え、忠誠を誓った小松帯刀とは、いったいどんな人物だったのでしょう。

今回はその生涯を辿ります。

 

小松帯刀はどんな人?

プロフィール
こまつたてわき

小松帯刀
出典:Wikipedia

  • 出身地:薩摩国鹿児島城下山下町(現・鹿児島市山下町)
  • 生年月日:1835年12月3日
  • 死亡年月日:1870年8月16日(享年34歳)
  • 薩摩藩家老として、明治維新を実現させた維新志士のひとり。鎖国下において薩摩藩の外交を促進、そのコネクションをもって薩長同盟を成立させ、倒幕を実現させた。

 

小松帯刀 年表

年表

西暦(年齢)

1835年(1歳)薩摩国鹿児島城下山下町(現・鹿児島市山下町)にて、喜入きいれ領主・肝付兼善きもつきかねよしの三男として生まれる。

1848~1855年(13~21歳)藩校・造士館にて学んだほか、漢学者・横山安容よこやまあんようから儒学、国学者・八田知紀はったともきから歌道を学ぶ。西郷隆盛・大久保利通らからなる精忠組とも交流。

1855年(21歳)奥小姓おくごしょう近習番勤きんじゅばんづとめとして薩摩藩・江戸藩邸に出仕。

1856年(22歳)吉利よしとし領主・小松清猷きよなおが急死。小松家存続のため清猷の妹・千賀ちかの婿となり、吉利領主となる。

1858年(24歳)薩摩藩の当番頭・奏者番そうじゃばんとして藩主・島津忠義に仕える。造船などを行う集成館の管理・貨幣鍛造などを職務とした。

1861年(27歳)長崎出張を命じられ、オランダ軍艦にて軍艦操作・電気・水雷などの研修を受ける。その実演にて手腕を認められ、藩の実験を握っていた島津久光の側近となる。

1862年(28歳)久光の上洛に随行し、朝廷との交渉役を務める。帰国後、薩摩藩家老に就任。薩英戦争にて指揮を執り、イギリス艦隊を退ける。

1864年(30歳)「禁門の変」にて、西郷隆盛らと共に御所の守備を務め、朝廷からの信頼を得る。第一次長州征討に出兵。

1866年(32歳)坂本龍馬、中岡慎太郎らの仲介にて、長州藩の木戸孝允たかよし、井上かおるらと交渉。京都の小松邸にて薩長同盟が成立する。

1867年(33歳)土佐藩と薩土同盟を成立させる。大和交易株式会社の設立、イギリス留学生の送り出しなど、外交にも力を注いだ。薩摩藩代表として将軍・徳川慶喜の大政奉還に立ち会う。

1868年(34歳)明治政府が成立。以降、総裁局顧問・参与・外国事務掛などの要職を歴任する。

1969年(35歳)大久保利通らと版籍奉還を画策。反発を招くも自ら自領を返還し、島津久光を説得する。

1970年(36歳)肺病や下腹部の腫瘍などを患い、オランダ人医師アントニウス・ボードウィンの治療を受ける。7月20日、大阪の借家にて病没。

 

幼少期から青年期

ここからは小松帯刀の生涯にまつわるエピソードを詳しく辿っていきましょう!

幼少期、複雑な家庭環境が秀才を育てた?

1835年、小松帯刀は薩摩藩の喜入きいれ領主・肝付兼善きもつきかねよしの三男として生を受けます。

幼名は肝付尚五郎きもつきなおごろう

のちに同じ薩摩藩の吉利よしとし領主・小松家の養子となるため、小松清廉きよかどと名を改めることになります。

よく知られている帯刀という名前は本名ではなく、実は通称なのです。

帯刀が生まれた肝付家は、戦国時代より薩摩藩主・島津家の直下に仕える名家。

そのため帯刀には生母のほか、養育を担う雇われの乳母がいました。

実はその乳母と両親の仲が悪かったらしく、帯刀は両親の愛情を受けずに幼少期を過ごしたのだとか…。

帯刀は13、14歳ごろから学問に目覚め、昼夜問わず勉学に励みますが、これも両親に認めてもらいたい一心だったという話があります。

このころの帯刀はそれこそ超ハードスケジュール。

・昼は藩校・造士館にて学ぶ

・藩校とは別に漢学者の横山安容よこやまあんようから儒学を学ぶ

・夜は国学者・八田知紀はったともきから歌道を学ぶ

加えて夜中に目を覚ますと明け方まで本を読んでいるような、本当に勉強熱心な子どもだったといいます。

皮肉なことに、複雑な家庭環境がのちの秀才を育てたわけですね。

庶民との関わりを好んだ帯刀

帯刀は領主の家系ゆえ、普通は下級武士たちと関わりをもつことはないのですが、このころから西郷隆盛大久保利通らによる精忠組とも交流をしています。

元来病弱だったゆえ、学問の無理がたたって温泉療法にも頻繁に出向いていたのですが、その際も百姓など、庶民が利用する温泉を好んだとも。

この習慣はのちに吉利領主となってからも続き、庶民の声によく耳を傾ける名君だと慕われるようになっていきます。

西郷隆盛が初めて相まみえた際も、帯刀は家格がずっと下の西郷に無礼講の態度で接し、それゆえ西郷が忠誠を誓うようになったという逸話も。

家庭環境に恵まれなかった割に、こんな感じで気さくな領主に育っていった帯刀。

両親が反面教師となったのか、それとも儒学など、哲学に傾倒したことが人格形成に功を奏したのか…?

いずれにしても、多くの人にとって理想の上司であったことはたしかです。

篤姫との関係も…?

2008年の大河ドラマ『篤姫』では、帯刀と篤姫が幼なじみとして描かれていました。

篤姫の生家である今和泉家は肝付家の近隣にあり、ふたりは実際に面識があったともいいます。

篤姫は薩摩藩主・島津斉彬なりあきらの引き立てから将軍・家定の正妻となった人物。

その点やはり、斉彬に重用されていた帯刀と親しかったという設定はロマンがありますよね。

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藩主・島津斉彬に引き立てられ薩摩藩の要職に

帯刀は20歳前後になると、名君として知られる薩摩藩主・島津斉彬に重用されるようになります。

このころ藩主の座を譲り受けた斉彬は、ペリー来航などの事件における幕府の立ち回りを危惧し、国内における軍備の改革の必要性を感じていました。

そこで藩でも学の立つ者に意見を聞きたいと考え、漢学者・横山安容の仲介で紹介されたのが帯刀だったといいます。

帯刀はこのとき、

・8年の渡米経験のあるジョン万次郎を引き合わせる

・藩士からイギリス留学生を派遣する案を出す

などのやり取りを斉彬としたのだとか。

特に鎖国下の日本において、脱藩、ましてや海外への渡航など違法も違法です。

しかし帯刀は派遣する藩士たちを琉球(現・沖縄)に一定期間潜ませ、幕府の目を盗んで留学させるという抜け道を示し、斉彬を感心させたという話。

このような事例から手腕を認められた帯刀は、1855年、21歳のころには江戸に出仕中の藩主の側役である、奥小姓おくごしょう近習番勤きんじゅばんづとめにも命じられています。

また22歳のころ、吉利領主・小松家家督を相続したのも斉彬の引き立てによるものです。

先代の領主・小松清猶きよなおは斉彬が重用した重臣だったのですが、琉球への出張中に死去。

「自身が与えた任務のために小松家の血を絶やすわけにはいかない」

と、斉彬が当主に掲げたのが帯刀だったのです。

斉彬がどれだけ帯刀の手腕を買っていたのか、如実に伝わるエピソードですよね。

ちなみに帯刀が婿入りしたのは、先代・清猶の妹の千賀ちかで、7歳うえの姉さん女房。

恋愛結婚ではないものの、端正な顔立ちの帯刀に一目惚れだったといいますよ。

 

島津久光の片腕に

1858年のこと、代が変わり薩摩藩主の座が、斉彬の嫡男・島津義忠に譲られてからも帯刀の重用は続きます。

義忠は若年だったため、このころから薩摩藩の実権は斉彬の弟・島津久光が握ることに。

帯刀はこの久光の片腕になると、清(中国)や琉球、諸藩との貿易に特に力を入れていきます。

幕藩体制の問題点であった財政面を、外交を促すことで解決しようと考えたわけですね。

1862年の久光の上洛に随行した際は、朝廷との交渉役も務めました。

学問を極めた帯刀の教養は、朝廷のお偉方とやり取りをするうえでも重要視されたのだとか。

帰国後は薩摩藩家老に任じられ、藩内での影響力をさらに強めていきます。

うん…まったく非の打ち所がないですね。

薩英戦争での活躍

1862年の上洛を終え、久光率いる薩摩藩一行が帰国の途についた折、とある事件が発生しました。

大名行列の目の前を、横浜在住のイギリス商人たちが横切り、藩士に重傷を負わされてしまう、俗にいう「生麦事件」です。

大名行列といえば時代劇などでも、庶民たちが頭を下げている姿がお馴染みですよね。

実際、この時代に地面にひれ伏すようなことがあったかは謎ですが、その目の前を横切るとは、前代未聞の非礼。

イギリス人たちからすれば、そんな日本独自の文化など知る由もなく、行き違いから殺傷事件に発展してしまったわけです。

これに対してイギリスは、幕府に10万ポンド、薩摩藩に2万5千ポンドの賠償金を請求

幕府はこれを支払ったのですが、薩摩藩は支払いを拒否します。

それこそ幕府の弱腰な姿勢を危惧していた薩摩藩は、海外列強の言いなりになってはいけないと、ここで抵抗したのですね。

これが原因となり、イギリス軍艦が鹿児島に武力交渉に訪れる「薩英戦争」に発展するのです。

しかし、帯刀はこの前年に長崎にてオランダ軍艦での訓練なども経験しており、また促進されていた貿易により、藩の軍備はイギリスの予想を上回るものとなっていました。

こういった経緯から、敵方の油断があったとはいえ、薩摩藩は最強と謳われたイギリス海軍を退けることになるのです。

すごいのはここから。

なんとこの薩英戦争をきっかけに薩摩藩とイギリスは盛んに貿易をするようになっていきます。

生麦事件や薩英戦争で被害を出してしまったことはイギリスに持ち帰られると

「イギリス側にも非があった」

と認められ、以降両者の親交を担っていく結果となったのです。

さすが紳士の国!

薩摩藩士たちは自分たちが正当だと思ったから頭を下げなかった。

それが功を奏したわけですね!

 

倒幕に傾倒していく藩主たち・幕藩体制の何が悪かったの?

帯刀が仕えた島津斉彬、島津久光といった薩摩藩主たちは、現状の幕藩体制に疑問を抱き、倒幕へと傾倒していきました。

ただ…単に「薩摩藩や長州藩が倒幕を画策した」と聞いても、

「幕藩体制の何に問題があったの?」

と、正直よくわからない部分も多いですよね。

そこで、崩壊しつつあった当時の幕藩体制にも少し触れておきましょう。

幕藩体制とは、幕府を主とし、その配下に全国300からなる藩を置いた体制のこと。

この幕藩体制においては、実は藩の収入に限界があり、それぞれの国力が絶対に育たないように作られていました。

藩の収入は、各領国における石高こくだかで決められており、領民からの年貢としてその分の米が納められます。

(※石高…米の収穫量のこと)

藩主の収入はほぼこれだけであり、金銭を得るためには、その米を貨幣に変える必要があります。

ただ…石高は面積や地質などから割り出されるのに対し、米には豊作、不作などがあり価格が安定しません。

さらに稲作の技術が改良されていけば米の収穫量が増え、さらにその価値は下がっていきます。

となると、年貢以外に収入のない藩主は財政難に陥り、国力を高めるどころの話ではなくなってしまいますよね。

また石高に応じて家格を設け、明確に区分けされた藩同士が協力することも難しく、それぞれの発展はどうしても頭打ちになってしまうという体制だったのです。

これは徳川家が幕府に反抗する大名が表れないようにと、綿密に組み立てたシステムなのですが…

黒船来航などで海外列強が間近に迫った幕末にこれを続けていては、いずれ日本は打ち負かされ、植民地化されてしまう。

こういった状況から、薩摩藩や長州藩などの雄藩ゆうはんは倒幕への意識を強めていったのです。

(※雄藩…藩のなかでも権力の強い藩のこと)

 

長州藩との対立

薩摩藩と長州藩は、どちらも倒幕の思想をもつ藩として、もとは幕府に対し同じような批判的な立ち位置を取っていました。

やり過ぎた長州藩

しかしこのうち、ちょっとやり過ぎてしまったのが長州藩。

倒幕の意識を剥き出しにしたその態度は、過激派と見られ、幕府から追放の対象とされてしまいます。

このとき薩摩藩が打ち立てていたのは、倒幕ではなく公武合体こうぶがったいです。

これは朝廷と幕府を併合させようという思想で、表立っては幕府の味方であることになります。

こういった経緯から

・八月十八日の政変

・禁門の変

・第一次長州征討

などで、薩摩藩は長州藩と対峙することに。

長州藩としては

「腹の底で考えていることは一緒のくせに!」

という感じで、薩摩藩への敵対心が高まっていくことになります。

ちなみに帯刀が特に活躍したのは「禁門の変」において。

このとき帯刀は御所の守備を任されたうえ、長州藩が残していった500俵の米を戦火の被害に遭った京の人々に配るなどして、朝廷からの信頼を得ています。

坂本龍馬との出会い

明治維新の立役者としてもっとも有名な人物といえば、やはり坂本龍馬です。

そう、帯刀と龍馬が出会ったのも、長州藩と薩摩藩の対立が深まっていくこの時期の話。

坂本龍馬は勝海舟が開いた海軍操練所に属していたのですが、これも長州勢追放の流れから、幕府の圧力を受けて閉鎖に追い込まれてしまいます。

こうなると土佐藩を抜け出して来た龍馬には行き場がなく、路頭に迷ってしまうところ。

その身を請け負ったのが、帯刀だったのです。

こうして雄藩である薩摩藩の後ろ盾を得た龍馬は、その名を借りて自由に活動することができ、これがのちの改革にもつながったわけですね。

明治政府の構想が出た際も、龍馬は西郷隆盛や大久保利通らを差し置き、その人選には一番に帯刀の名を挙げたといいます。

龍馬にとって、帯刀は何より明治維新に欠かせない人物だったのです。

龍馬と妻のおりょうさんが行った「日本初の新婚旅行」も、寺田屋事件で負傷した龍馬を気遣った帯刀の勧めによるものだといいますよ。

 

薩長同盟の成立

幕府により京を追放され、薩摩藩と対立するようになった長州藩。

ここで幕府が意図したのは、単に過激派の長州藩を追い払うことだけではありませんでした。

長州藩追放の幕府の意図

その目的は、何度も長州征討を命じることで薩摩藩を疲弊させ、倒幕思想を抱く藩をいずれも衰退させること。

帯刀はこの策略にいち早く気付いていました。

そこで活躍するのが、坂本龍馬が設立した亀山社中(のちの海援隊)です。

亀山社中のメンバーである龍馬、中岡慎太郎らは長州藩や薩摩藩の主要人物の説得に出向き、両者の交渉の場を設けます。

こうして1866年に京都の小松邸にて締結されたのが薩長同盟

雄藩同士が手を結んだこの同盟は、幕府に対抗し得る武器となり、戊辰戦争を経て倒幕を実現するに至ります。

そう、このときの龍馬の功績は、薩摩藩と長州藩のあいだを取り持ったこと。

薩摩藩の代表として交渉に臨んだのは帯刀と西郷隆盛です。

こう考えると、交渉を成立させた功績は帯刀にあるとするのが正しいともいえますよね。

犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩はどうやって同盟を結んだ?

問題は、犬猿の仲となっていた薩摩藩と長州藩がどうやって交渉を成立させたかです。

これは、薩摩藩が長州藩の武器購入に際し、名義貸しをしたことにあります。

幕府から追放された長州藩は、その名前を使って武器を購入することがもうできません。

その点、薩摩藩は外交に長けており、イギリスから軍艦や銃などを取り寄せることができます。

そう、薩摩藩はその名を使って、長州藩の軍備増強に力を貸すことで同盟を取り付けたのです。

こうなると薩長同盟において、薩摩藩の代表である帯刀の功績はなにより大きいことがわかります。

 

小松帯刀の最期・ネームバリューが低い理由は…?

明治政府が成立した折、帯刀は

・総裁局顧問
・参与
・外国事務掛

など、外交や内政の最高機関を歴任。

このほか藩が領国を国に返還する、版籍奉還はんせきほうかんの画策にも携わり、自らが先立って領地を返還することでその手本となっています。

しかし、ここからほどなくして帯刀は病没することに。

まさに明治維新に捧げたといえる36年の人生は、ここで幕を閉じるのです。

龍馬や西郷に比べてネームバリューが低いのは、その最期が持病によるもので、両者に比べて悲劇感がないからだとも…?

 

きょうのまとめ

庶民から愛され、吉利の名君として台頭した小松帯刀。

家老として薩摩藩を率いる存在となってからは明治維新に奔走し、新しい日本社会に向けて多大な功績を残しました。

坂本龍馬・西郷隆盛・大久保利通…維新志士の後ろには、いつでも帯刀がいる。

彼のリーダーとしての器の大きさが、各々の活躍を支えた部分は大きいでしょう。

最後に今回のまとめです。

① 小松帯刀は両親の愛情を受けずに育ち、それゆえ勉学に励んだ。領主となってからは庶民とも気さくに接し、名君と呼ばれていた。

② 薩摩藩主・島津斉彬や島津久光の側近として活躍。外交を促し経済や軍備を強化したほか、朝廷、幕府との交渉役も務める。

③ 軍備増強を望む長州藩に対し、薩摩藩の名義を貸して武器を調達。これにより薩長同盟を成立させた。

個人的に、帯刀の名がそこまで知られていないのは、功績をひけらかさないその人柄にもあったのかな…?なんて考えも浮かびました。

決しておごらず、これからの日本のためにひた走る。

小松帯刀はただただ、周囲の幸せのために生きた人だったのでしょう。

 
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