聖徳太子の十七条の憲法をわかりやすく説明します。

 

7世紀、まだ天皇の力が弱く豪族達が権力争いをしていました。

そんな時代に強大国の隋(ずい/中国)に備えて、新しい国づくりを目指した人物がいます。

それが聖徳太子です。

聖徳太子が制定した十七条の憲法

新しい国づくりにどんな意味があったのでしょうか。

わかりやすく説明します。

 

十七条の憲法が生まれた背景

581年、長い間分裂状態だった中国を隋が統一。

倭(わ/当時の日本)は隋の脅威にさらされることになりました。

強大国の隋の侵略を避け、対等な外交を行うためには新しい国づくりを行う必要があります。

当時の倭は、大和朝廷はありましたが、力を持った豪族達が権力争いにあけくれており国として、まとまっていませんでした。

当時推古天皇の摂政だった聖徳太子は、豪族同士の不和を解消し国をまとめる為に

天皇中心の中央集権国を目指します。

「十七条の憲法の制定」は、「冠位十二階の制定」や「国史の編纂」と並ぶ天皇中心の中央集権国家への政策のひとつでした。

 

十七条の憲法は冠位十二階とセット

603年、十七条の憲法と深い関係のある冠位十二階が制定されます。

冠位十二階とは、官人(当時の役人)の位制度で、

これまでのように代々受け継がれるものではなく、能力によって位が与えられます。

これは、優れた人物を家柄に関係なく起用しただけではなく、豪族達を官人として天皇に仕えさせる第一歩になりました。

こうして新しく官人になった豪族達に、

官人としての心得を説いたものが十七条の憲法です。

 

十七条の憲法の内容とは?

初めての成文法

604年十七条の憲法は制定されました。

十七条の憲法は日本で初めての成文法といわれています。

成文法とは文章によって記された法律のことです。

また、その名の通り十七条の条文から成っています。

内容は憲法や法律というより、官人(役人)たちの心得や道徳を示したもので、

神道や儒教、仏教の教えをあわせて作られました。

十七条の憲法は、大化の改新以降、制定が目指された律令(法律と刑法)の礎(いしずえ)になります

具体的には?

十七条の憲法には、具体的にどのようなことが記されているのでしょうか。

簡単に説明していきます。

「和を以て貴しとなす(わをもってたっとしとなす)」で有名な第一条には、このようなことが書かれています。

調和を最も大切にしなさい。

身分を超えて、みんなと議論を行えば、自然と良い方向に向かうものです。

続いて、第二条以降は

仏法を大切にするように、

天皇の命令には必ず従うこと、

礼儀を大切にしなさい、

賄賂(わいろ)はやめて民衆の訴えには公正明大に扱うこと、

適材適所が大事、

朝から晩までしっかり働くように、

嘘をついてはいけない、

怒りはおさえなさい、

賞罰は公正に、

税の中間搾取(ちゅかんさくしゅ)はしてはいけない、

タイミングを大切に、

という意味のことが書かれています。

そして最後の十七条に、

何か重要なことを決める際は、一人で決めずにみんなで議論すれば、かならず良い結論に至る。

と記され

第一条に対応する形で締めくくられています。

聖徳太子は、十七条の憲法を使って

争いをやめて天皇を中心
まとまるように豪族に説いたのでした。

 

きょうのまとめ

聖徳太子の十七条の憲法について紹介しました。

簡単にまとめると

① 隋からの支配を避け対等な国交を結ぶために、天皇を中心とした中央集権国家をめざした

② 十七条の憲法は天皇を中心とした中央集権国家への政策のひとつである

③ 十七条の憲法は冠位十二階とセットである

と言えるのではないでしょうか。

当サイトでは、その他にも聖徳太子にまつわる記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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