小早川隆景の家紋、「左三つ巴」について

 

「三本の矢」で有名な毛利家の三男、

小早川隆景こばやかわたかかげ

次男の吉川元春とともに本家毛利家を名実ともに支え続けます。

天下人豊臣秀吉の五大老の一人までのぼりつめます。

今回は小早川家の発祥や小早川隆景の家紋についてお伝えします。

 

小早川家の発祥から断絶まで

小早川隆景

出典:Wikipedia

小早川家は、源頼朝に仕えた鎌倉時代の武将・土肥実平どひさねひら(桓武平氏の一族)に始まります。

土肥氏は相模国土肥郷から発祥した家柄で、土肥実平は源頼朝の挙兵以来の重臣でした。

土肥実平は平氏追討で功を立て沼田庄(広島県三原市)の地頭として移り住みます。

土肥実平の子・遠平とおひらから小早川姓を名乗っています。

その子孫、土肥茂平は竹原庄(広島県竹原市)の地頭職も与えられ、本家の沼田小早川家、分家は竹原小早川家として分かれます。

いずれも水軍が優れていたのが特徴ですが、中国地方でも権力を広げ、応仁の乱のときは敵味方に別れて戦ったこともありました。

大きく動いたのは1543年。

竹原小早川氏の当主興景が病死し、その隙を狙い、毛利元就が三男隆景を養子に据えます。

本家の沼田小早川家、分家竹原小早川家を統合し、実質毛利家の家臣一族として吸収します。

その後、豊臣秀吉が政権を握ります。

小早川隆景は秀吉の養子秀秋を後継ぎとした代わりに、秀吉の五大老に加わります。

しかし、この後継ぎ当時19歳の小早川秀秋が歴史を動かします。

小早川秀秋は1600年の関ヶ原の戦いで西軍側を裏切り、東軍徳川家康に寝返ります。

徳川勝利に貢献したことで、備前岡山47万石の領地を得ます。

しかし2年後に病死し、後継ぎがなかったことから小早川家が断絶することとなりました。

 

小早川隆景の家紋は「左三つ巴」

この「左三つ巴」は小山、足利、佐野、結城など藤原秀郷流が好んで用いていました。

小早川隆景以外に九鬼嘉隆くきよしたか蒲生氏郷がもううじさと、福島正則、山本勘助が用いています。

明治維新の時代に活躍した土方歳三も、藤原氏の流れをくみ「左三つ巴」を用いています。

 

巴(ともえ)の意味

巴がなぜ渦巻のような形をしているのか、由来は定かではありません。

説は複数ありますが大きく分けて4つの説があります。

弓をいる時の鞆(とも)説

ともは、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具です。

この道具の形が由来という説です。

勾玉(まがたま)説

勾玉まがたまは先史・古代の日本における装身具の一つで、祭祀にも用いられたものです。

この勾玉の形が由来とも言われています。

渦巻く水説

水が渦巻く様子に似ていることが由来という説です。

この説から平安末期の建物に軒丸瓦のきまるがわらなどに火災除けとして使われています。

軒丸瓦: 軒先に用いる丸瓦。蓮花紋や巴紋ともえもんをつけることが多い。

また太鼓などにも描かれています。

蛇説

とぐろを巻く蛇の様子をかたどっているという説もあります。

昔から蛇は「神の使い」として崇められていました。

このことからへびが由来という説もあります。

巴は八幡神の神文としても用いられ、神霊の印とも言いい、武家ではよく使われる家紋となりました。

1つの巴の一つ巴ひとつどもえ、2つの巴の二つ巴ふたつどもえ、4つの巴の四つ巴よつどもえなどもあります。

 

きょうのまとめ

小早川隆景の家紋について見てきましたが、いかがでしたでしょうか

小早川隆景の家紋については、

① 小早川家の発祥は鎌倉時代までさかのぼる

② 毛利家の三男隆景が小早川家を継ぎ、本家毛利家を支える

③ 小早川隆景の家紋は「左三つ巴」

④ 「左三つ巴」は福島正則、山本勘助など多くの武家で用いられていた

⑤ 「巴 の由来は各説あり、詳細は不明

と言えるのではないでしょうか。

小早川隆景については、他にも色々な記事があります。

よろしかったらご覧になってみて下さい。
 

目次に戻る ▶▶

 

 

 

その他の人物はこちら

安土桃山時代に活躍した歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【安土桃山時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

時代別 歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

two + six =