北里柴三郎は、2024年から導入される新紙幣で1万円札の渋沢栄一、5千円札の津田梅子とともに、千円札の顔として登場する人物です。
彼が選ばれたのには理由があるはず。
北里柴三郎とは一体どんな人物なのでしょうか。
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北里柴三郎はどんな人?
- 出身地:肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現熊本県阿蘇郡小国町大字北里)
- 生年月日:1853年1月29日
- 死亡年月日:1931年6月13日(享年78歳)
- ペスト菌の発見、破傷風の治療法開発など伝染病予防と治療に貢献した「日本の細菌学の父」。北里研究所病院、慶應義塾大学医学科、日本医師界などの創立者
北里柴三郎 年表
西暦(年齢)*満年齢にて表記
1853年(0歳)肥後国北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国北里)で父・惟信、母・貞の長男として誕生
1871年(18歳)2月、熊本医学校(現・熊本大学医学部)に入学。蘭医のマンスフェルトに師事
1874年(21歳)東京医学校(現・東京大学医学部)に入学
1883年(30歳)結婚。東京大学医学部卒業、内務省衛生局に入局
1886年(33歳)ドイツベルリン大学のコッホに師事
1890年(37歳)破傷風菌抗毒素(免疫体)の発見、世界初の血清療法を発見し確立
1892年(39歳)帰国後、内務省に復職。福澤諭吉らの援助により私立伝染病研究所を設立
1894年(41歳)ペスト菌を発見
1899年(46歳)伝染病研究所が国立となり内務省に移管
1914年(61歳)伝染病研究所の文部省への移管に反対し、所長を辞任。私費を投じて北里研究所を設立
1915年(62歳)恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)設立、初代院長就任
1917年(64歳)慶應義塾大学医学科創設。初代科長に就任
1923年(70歳)日本医師会を創設。初代会長に就任
1931年(78歳)脳溢血のため東京麻布の自宅で死去
北里柴三郎の生涯
軍人志望の少年が目覚めた医学
北里柴三郎は、1853年1月29日に現在の熊本県阿蘇郡小国町北里で庄屋を務める家に誕生しました。
源氏の流れを汲む名門武家を先祖に持つ家の出として、武士となる夢は明治維新により絶たれますが、彼は軍人になりたいと考えていました。
1871年、18歳で熊本医学校(現在の熊本大学医学部)に入学。
当初は医学に深い興味もなかった北里でしたが、オランダ人医師マンスフェルトの指導で医学の道に進むことを決意しました。
1874年、東京医学校(東京大学医学部)に入学。
彼は在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信。
予防医学を生涯の仕事にする決意をし、卒業後1883年に内務省衛生局に入局しています。
留学、そして血清療法確立の偉業
1885年から約6年間ドイツのベルリン大学に留学。
病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事して研究に励みました。
1889年には、破傷風菌の純粋培養に成功。
破傷風菌抗毒素を発見し、血清療法を確立して一躍世界的な研究者となりました。
帰国後の現実、そして活躍
欧米各国の研究所や大学からの招きを断り、北里は1892年に帰国。
しかし、彼を受け入れる先がありませんでした。
そんなときに助けの手を差し伸べたのがあの福沢諭吉。
彼の財政的支援で、のちにコッホ研究所、パスツール研究所と並んで世界3大研究所の一つと称されるようになる「私立伝染病研究所」が創立され、北里は所長に就任しました。
研究所では、主に伝染病予防と細菌学の研究に取り組み、翌年には、日本最初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開設して結核予防と治療が行われました。
北里自身は、1894年に香港で蔓延したベストの原因調査で現地に赴き、ペスト菌を発見して世界で絶賛されています。
ところが1914年、所長の北里に相談なく伝染病研究所が内務省から文部省に移管されることが決まり、北里は所長を辞任します。
それを知った研究所の全職員も辞表を提出したことが、世間で騒がれました。
後進の育成
その後、北里は医学研究機関として「北里研究所」を創立し、細菌学・免疫学の講習会の実施など教育活動や衛生行政などの分野で活躍。
当研究所が輩出した多くの優秀な門下生の中には、
・梅毒の特効薬を発見した秦佐八郎
・黄熱病や梅毒の研究で知られた野口英世
などがいました。
1917年、北里は亡き福沢諭吉への恩に報いるために、慶應義塾大学医学科を創設。
彼に続く研究者を育て、日本医師会などの各種医学団体や病院の設立などにも従事し、近代日本医学の礎を築いたのです。
1931年6月13日の朝。
麻布の自宅の布団の中で安らかに大往生している北里が発見されました。
前日まで元気だったそうです。
「死ぬ時はポックリ逝きたい」と願っていた本人の望み通り、脳溢血での最期でした。
北里帰国後の受難
海外からの魅力的なオファーを全て断り、母国の科学の進歩と国民の健康増進に貢献するために日本に帰国した北里でしたが、留学後の彼には多くの困難が待ち受けていました。
母校・東大に「恩知らず」と言われる
帰国後の日本には、彼が研究する場所がなかったのです。
北里の古巣の内務省には設備がなく、唯一医学研究施設を持っていた母校の東大は、北里受け入れを拒否しました。
拒否の理由は、北里が以前に東大の緒方正規による「脚気菌発見」の論文に対し、「菌と脚気とは無関係だ」という論文を発表していたからです。
脚気は菌ではなくビタミンB1の不足でおきる病気ですから、北里が正しかったわけです。
しかし、緒方正規とは、留学前の北里が細菌の扱い方について教わり、留学便宜を図ってもらった人物。
そのため医学界、特に東大が「忘恩の輩(恩知らず)」だと北里を非難したのです。
北里は窮地に陥りました。
しかし、福沢諭吉が私有地を提供し、友人の森村市左衛門とともに私財を投じたおかげで、日本初の伝染病研究所が開設され、北里が所長となりました。
第一回目のノーベル賞を逃す北里と日本
北里がペスト菌の発見をしたとき、これを世界中は絶賛しました。
しかし「恩知らず」のレッテルを貼られていた北里は、国内でそれほど評価されません。
むしろ彼の説を非難する根拠のない論文が多く発表されるような状況でした。
1901年にはノーベル賞が創設されましたが、第1回のノーベル医学生理学賞は、コッホの弟子・ベーリングが「ジフテリア血清療法の開発」で受賞しました。
血清療法は素晴らしい治療法ですが、北里の破傷風研究のあとでは二番煎じのようなもの。
それでもドイツは国をあげてベーリングを後押しし、熱意で賞をものにしました。
日本は北里の功績を世界にアピールするどころか足を引っ張り、ノーベル賞の最初に日本人の名前を残す努力を放棄していたのです。
全員辞職!伝研移管騒動
福沢諭吉らのサポートで開設された「私立伝染病研究所」は、実績が認められて国立の組織となり、内務省管轄となりました。
ところが1914年、所長の北里に一切相談もなく、研究所はまだ確執が残る東大の下部機関として、文部省への移管が決定されたのです。
北里はこれに強く反対し、のち辞職。
所員全員も彼を追い、辞表を叩きつけて辞めました。
結局、東大に移ったのは人のいない研究所だけ。
これは当時「伝研移管騒動」と呼ばれ、政界を巻き込み、マスコミに大きく報道された事件です。
北里が置かれた厳しい状況と、彼がいかに弟子や部下から慕われたかを物語っています。
こののち、北里は私財をなげうって「私立北里研究所」を設立したのでした。
北里柴三郎の墓所
78歳で亡くなった北里の葬儀は青山斎場で行われ、のち青山霊園に埋葬されました。
墓碑銘は「男爵北里柴三郎之墓」です。
<青山霊園:東京都港区南青山2-32-2>
きょうのまとめ
今回は、北里柴三郎の生涯と、彼の日本での活動の中で直面した問題についてご紹介しました。
北里柴三郎とは
① ベスト菌を発見し、破傷風の治療法を開発した、感染症医学の偉大な研究
② 志賀潔、秦佐八郎、野口英世などの優秀な門下生を育てた日本の細菌学の第一人者
③ ドイツ留学後の日本での逆境に挫けず、多くの医学関連組織を創設し、母国の医学の発展に寄与した人
でした。
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