本多忠勝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

織田信長が天下を統一したと思えた戦国時代、その信長も本能寺で討たれ、

次に台頭したのは豊臣秀吉でした。

秀吉の配下で、その子秀頼を補佐する五大老の筆頭となったのは徳川家康です。

秀吉の死後、織田、豊臣に仕えていた家康に天下を手中にする順番がついに回ってきたのです。

その家康に幼い頃から付き従い、家康のために命がけで戦ってきた人物がいます。

それが本多忠勝でした。

生涯57回もの合戦を経て傷一つ負わなかったという強い武将でした。

そんな本多忠勝について、エピソードなど交えながらみていきましょう。

本多忠勝はどんな人?

  • 出身地: 三河国額田郡蔵前(みかわこくぬかたぐんくらまえ 現在の愛知県岡崎市西蔵前町)
  • 生年月日: 1548年3月17日
  • 死亡年月日: 1610年12月3日(享年 63歳)
  • 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三英傑に名を連ねる武将

本多忠勝 年表

西暦(年齢)

1548年( 1歳) 三河国に生まれる。(幼名、鍋之助) (別名 平八郎)

1560年(13歳) 元服。初陣で大高城攻め、桶狭間の戦いに参戦する

1570年(23歳) 姉川の合戦に参戦

1572年(25歳) 三方ヶ原の戦いに参戦

1575年(28歳) 長篠の合戦に参戦

1584年(37歳) 小牧長久手の戦いに参戦

1590年(43歳) 上総国大多喜藩(かずさのくにおおたきはん)に10万石を拝領する

1600年(53歳) 関ヶ原の戦いに参戦

1601年(54歳) 伊勢国桑名10万石に国替えとなる

1610年(63歳) 桑名城で死去

敵の武将から一目置かれる存在

本多忠勝は戦さ場において怪我ひとつ負わなかったことは前述しましたが、それだけではありません。

彼の戦いぶりをみた有名な人々から賞賛されているのです。

三方ヶ原の戦いの前哨戦ともなった一言坂の戦いでは殿(しんがり)を務め、

その戦いぶりから敵である武田軍の小杉左近

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」

と、その働きの見事さを讃えられています。

ちなみに殿(しんがり)とは、戦において自分の大将を逃がすため最後尾で敵と戦うことで命がけの仕事でした。

織田信長には

「花も実も兼ね備えた武将である」

と言われています。

また豊臣秀吉にも

「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」

と勇将であることを讃えられています。

立花宗茂という人は、豊後国の大友宗麟に仕えた武将で立花道雪の養子です。

このように人からその勇敢さと武将ぶりを讃えられた人は、そう多くはいないでしょう。

本多政勝にまつわるエピソードや伝説

本多忠勝の槍

本多忠勝の槍は「 天下三名槍 」の一つとされています。

その槍は刃の長さが44㎝ほどの大きなものでした。

ある日その槍の穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったということから「 蜻蛉切 」と呼ばれるようになったそうです。

当時の一般の槍の柄は約4.5mだったそうですが、忠勝の槍の柄は約6mあったそうです。

そんな大槍を使いこなしていた忠勝は正に戦場においては鬼神のようだったでしょう。

大槍を使いこなす忠勝の体格についてはこちら。

人情に厚い人物

生涯57回もの合戦に臨み、多くの武将の首を取ってきた本多忠勝ですが、その内面は意外にも情に厚いものでした。

関ヶ原の戦いで、敵に回った真田昌幸・幸村親子の助命を願ったのも忠勝でした。

その頃忠勝の娘は、真田信幸(幸村の兄)に嫁いでいました。娘婿の頼みを受けて主君である家康に必死に嘆願しました。

家康は真田親子には散々煮え湯を飲まされており、いくら忠勝の願いとて聞き入れられるものではありませんでした。

しかし幼い頃から自分に忠実に尽くしてきた本多忠勝の頼みを無下にもできず、

真田親子を高野山近くの九度山に蟄居させるという決断をします。

このことから本多忠勝がいかに家康にとって大切な家臣であったかよくわかります。

秀吉と家康が和睦した際に、秀吉から

「 秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとって重いものか 」

とたずねられました。

忠勝は

「 秀吉の恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であり月日の論には及びがたし 」

と答えました。

忠勝の方も家康への忠信を忘れたことはなかったのです。

忠勝の剣

本多忠勝が桑名城へ国替えになったある日、息子の忠政と小舟で巡視をしていた時、息子にこう言いました。

「 この櫂(かい)で葦(あし)を薙(な)いでみろ 」と。

忠政はそれに応え、葦を薙ぎ倒しました。しかし忠勝は、鎌で刈ったかのように葦を切り取っていたと言います。

忠勝はたとえ舟を漕ぐ櫂であっても、剣に変えることができたのです。

正に優れた武将の一面だと言えるでしょう。

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。本多忠勝についていかがでしたでしょうか。

本多忠勝とは?

①徳川四天王、十六神将、三英傑のひとり

②武将として優れた逸材であった

③情に厚い一面も持ち合わせていた

④蜻蛉切という大槍を使いこなす鬼神

という人物と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても本多忠勝にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。










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