本多忠勝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

徳川家康に幼い頃から付き従い、家康のために命がけで戦ってきた人物がいます。

本多忠勝ほんだただかつです。

生涯57回もの合戦を経て傷一つ負わなかったという強い武将でした。

そんな本多忠勝について、エピソードなど交えながらみていきましょう。

 

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本多忠勝はどんな人?

プロフィール
本多忠勝

本多忠勝
出典:Wikipedia

  • 出身地:三河国額田郡蔵前みかわこくぬかたぐんくらまえ(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)
  • 生年月日:1548年3月17日
  • 死亡年月日:1610年12月3日(享年63歳)
  • 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に名を連ねる武将

 

本多忠勝 年表

年表

西暦(年齢)

1548年(1歳)三河国に生まれる。(幼名、鍋之助/別名、平八郎)

1560年(13歳)元服。初陣で大高城攻め、桶狭間の戦いに参戦する

1570年(23歳)姉川の合戦に参戦

1572年(25歳)三方ヶ原の戦いに参戦

1575年(28歳)長篠の合戦に参戦

1584年(37歳)小牧長久手の戦いに参戦

1590年(43歳)上総国大多喜藩かずさのくにおおたきはんに10万石を拝領する

1600年(53歳)関ヶ原の戦いに参戦

1601年(54歳)伊勢国桑名10万石に国替えとなる

1610年(63歳)桑名城で死去

 

本多忠勝の生涯

本多忠勝の活躍

本多忠勝は1548年に三河国額田郡(愛知県岡崎市)で本田忠高の長男として生まれました。

彼は幼い頃から徳川家康に仕えています。

13歳で元服し、その翌年には初めて敵の首を取ったという武者ぶりでした。

その後、

・姉川の戦い

・三方ヶ原の戦い

・小牧長久手の戦い

・関ヶ原の戦い

などたくさんの戦さ場に出陣し、常に家康を守っていました。

生涯で57回も戦に出て、怪我1つ負わなかったといいます。

徳川四天王

・本多忠勝

・酒井忠次

・榊原康政

・井伊直政

の1人として、家康が天下を取るために活躍しています。

敵の武将から一目置かれる存在

豊臣秀吉

「本多忠勝は戦さ場において怪我ひとつ負わなかった」ことは前述しましたが、それだけではありません。

彼の戦いぶりをみた有名な人々から賞賛されているのです。

三方ヶ原の戦いの前哨戦ともなった一言坂の戦いでは殿しんがりを務め、

その戦いぶりから敵である武田軍の小杉左近に

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八(忠勝)」

と、その働きの見事さを讃えられています。

ちなみに殿とは、戦において自分の大将を逃がすため最後尾で敵と戦うことで命がけの仕事でした。

織田信長には

信長
花も実も兼ね備えた武将である

と言われています。

また豊臣秀吉にも

秀吉
東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる

と勇将であることを讃えられています。

立花宗茂という人は、豊後国の大友宗麟に仕えた武将で立花道雪の養子です。

このように人からその勇敢さと武将ぶりを讃えられた人は、そう多くはいないでしょう。

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本多忠勝の最期

晩年の忠勝は、周りのものに自分の名前を掘っていたようで、その時手に怪我をしたといいます。

名前
本田忠勝も怪我をするようになっては終わりだな

と言った言葉通り、それから間も無く亡くなったのです。

享年63歳。

戦国の世を大暴れした武将の最期でした。

 

本多忠勝にまつわるエピソードや伝説

本多忠勝の槍

本多忠勝の槍は「天下三名槍」の一つとされています。

その槍は刃の長さ44cmほどの大きなものでした。

ある日その槍の穂先に止まった蜻蛉とんぼが真っ二つになったということから「蜻蛉切」と呼ばれるようになったそうです。

当時の一般の槍の柄は約4.5mだったそうですが、忠勝の槍の柄は約6mあったそうです。

そんな大槍を使いこなしていた忠勝は正に戦場においては鬼神のようだったでしょう。

真田親子を救う

本多忠勝は、生涯57回もの合戦に臨み、多くの武将の首を取ってきました。

忠勝は強いだけではなく、情に厚く優しい一面も持っていました。

本多忠勝の娘が真田信之(幸村の兄)に嫁いだ後、関ヶ原の戦いで真田昌幸幸村親子は徳川の敵にまわります。

娘婿の信之が自分の親と弟の命を助けて欲しいと願います。

忠勝はその信之に加勢し、家康へ助命して欲しいと頼むのでした。

家康は真田親子には散々煮え湯を飲まされており、いくら忠勝の願いとて聞き入れられるものではありませんでした。

しかし家康は自分にずっと忠実に仕え、武功を挙げて来た忠勝の願いに、シブシブですが応えるしかありませんでした。

真田親子は命を助けられ、高野山へ送られその後九度山で蟄居ちっきょすることとなったのです。

信之の頼みだけでは到底許されてはいなかったでしょう。

娘婿のために忠勝が必死に嘆願してくれたからこそ叶ったことだと思います。

忠勝がいかに家康にとって大切な家臣であったかよくわかります。

家康への忠信

一方で忠勝も、家康への忠信を忘れたことはありませんでした。

秀吉と家康が和睦した際に、秀吉から

秀吉
秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとって重いものか

とたずねられました。

忠勝は

忠勝
秀吉の恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であり月日の論には及びがたし

と答えといいます。

忠勝の剣

本多忠勝が桑名城へ国替えになったある日、息子の忠政と小舟で巡視をしていた時、息子にこう言いました。

忠勝
このかいあしいでみろ

忠政はそれに応え、葦を薙ぎ倒しました。

しかし忠勝は、鎌で刈ったかのように葦を切り取っていたと言います。

忠勝はたとえ舟を漕ぐ櫂であっても、剣に変えることができたのです。

正に優れた武将の一面だと言えるでしょう。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。本多忠勝についていかがでしたでしょうか。

本多忠勝とは?

① 徳川四天王のひとりとして家康を支えた

② 生涯57回の戦に参戦し、怪我一つ負わなかった

③ 蜻蛉切という大槍を使いこなす鬼神

④ 情に厚い一面も持ち合わせていた

という人物と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても本多忠勝にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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