ジョン・ロックとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

17世紀に活躍したイギリス人哲学者、

ジョン・ロック

祖国では「イギリス経験論の父」と呼ばれ、

彼が唱えた社会契約論は、後の時代の「アメリカ独立宣言」や

「フランス人権宣言」に大きな影響を与えました。

ジョン・ロックとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は彼の生涯を探っていきましょう。

 

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ジョン・ロックはどんな人?

プロフィール
ジョン・ロック

ジョン・ロック
出典:Wikipedia

  • 出身地:イギリス サマセット州リントン
  • 生年月日:1632年8月29日
  • 死亡年月日:1704年10月28日(享年72歳)
  • 哲学者。イギリス経験論の父。社会契約論について著した『統治二論』は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に影響を与えた。

 

ジョン・ロック 年表

年表

西暦(年齢)

1632年(0歳)イングランド南西部サマセット州、リントンで誕生。

1646年(14歳)ウェストミンスター校に入学。

1652年(20歳)オックスフォード大学のクライストチャーチに進学。哲学と医学を学ぶ。

1658年(26歳)オックスフォード大学で特別研究員になる。2年後、同大学でギリシャ語講師、その2年後には同大学の修辞学講師を務める。

1665年(33歳)外交官の秘書としてクレーヴェに派遣される。

1667年(35歳)シャフツベリ伯爵の秘書官兼主治医としてロンドンに移住。 翌年『解剖学』、その翌年には『医術について』を執筆。

1683年(51歳)前年、伯爵が反逆罪に問われオランダへ亡命したことを受け、自身もオランダへ。

1689年(57歳)前年に名誉革命が起き、イギリスに帰国。『統治二論』、『人間知性論』を執筆。

1696年(64歳)通商植民地委員会の委員となり、その後4年間務める。

1704年(72歳)10月28日、イングランド東部のエセックス州オーツで死去。

 

ジョン・ロックの功績

ここでは早速、

ジョン・ロックがその生涯において遺した主な功績をご紹介していきます。

イギリス経験論の父

ジョン・ロックの代表的な功績としてまず挙げておきたいのは、

彼がそれまでになかったイギリス独自の思想を

初めて作った人物である、ということです。

それが、近代哲学の認識論に関する「経験論」でした。

彼が確立した経験論を端的に説明すると、

「人間のすべての知識は経験することで身につく」

といったものです。

この思想は、人間にはあらかじめ理性が備わっている、

という立場の生得論や合理論とは逆の立場でした。

ジョン・ロックは、この経験論に関する代表的な著書、

『人間知性論』のなかで、

生まれたばかりの人間は白紙であるということを、

「タブラ・ラサ」という言葉で表現しています。

彼が唱えたこの理論は、その後の哲学者たちに広く受け継がれ、

現代のイギリス人たちの考え方にも影響を与えています。

社会契約論

哲学者であると同時に政治哲学者としても有名だった

ジョン・ロック。

彼は、この政治哲学においても重要な功績を遺しています。

それが「社会契約論」です。

社会契約論を端的に説明すれば、

「自由で平等な人間同士が、理性に基づいて国家をつくりあげる」

という社会契約に関する考え方です。

ちなみにこの社会契約論については、

ホッブズが『リヴァイアサン』という著書で、

ルソーも『社会契約論』という著書でそれぞれ論じています。

ジョン・ロックは『統治二論』という著書を遺し、

自由で平等な市民社会に基づいた社会契約や、

抵抗権などについて論じています。

彼の思想の特徴として、

ルソーやホッブズが宗教を前提としない立場であるのに対し、

キリスト教の世界観に基づいた立場である、ということが挙げられます。

ジョン・ロックの社会契約論は、絶対的な神という存在がいる前提で、

その神が定めた摂理に忠実に生きることが良い生である、

という考えに由来していました。

歴史上の出来事に影響を与える

ここで、社会契約論についてジョン・ロックの考えが分かる、

有名な名言をご紹介します。

ジョン・ロック
全ての人間は平等で独立しており、何人も他人の生命、健康、自由、あるいは財産を侵害すべきではない。

彼のこの自由主義的な思想は、

王侯貴族や領主などによる封建的な政治が行われていた時代、

新たな風となって人々に影響を与えていきます。

まず、イギリス国内で起きたクーデター

「名誉革命」を理論的に正当化することになり、

その後の「アメリカ独立宣言」や「フランス人権宣言」等、

歴史上に残る大きな出来事にもその思想は広く反映されていったのです。

 

ジョン・ロックにまつわるエピソード

ここでは、意外と知られていない、

ジョン・ロックに関するエピソードをご紹介していきます。

生粋のエリート

1632年、イングランド南西部サマセット州の町、

リントンで誕生したジョン・ロック。

父親はピューリタン革命に参加し、議会軍の騎兵隊長を務めた人物でした。

そんな父のもとに生まれたジョン・ロックは、

幼い頃から父の背中を見て、思想というものに触れながら育ちました。

彼は14歳になると、限られたエリートだけが通うことのできる、

名門ウェストミンスター校に入学。

20歳になると、オックスフォード大学のクライストチャーチに進学し、

そこで哲学と医学の両方を修めます。

その後、同大学の特別研究員となり、後にギリシア語の講師や、

弁論の技術などを学ぶ修辞学の講師を務めることになります。

この経歴を見ただけでも、ジョン・ロックが優秀な人物だったことが分かります。

しかし、後に「イギリス経験論の父」となる彼の経歴は、

この先もっと華やかなものになるのです。

二足のわらじ

オックスフォード大学で講師をしていたジョン・ロックが33歳を迎えた頃、

彼は外交官の秘書に抜てきされ、ドイツのクレーヴェに派遣されます。

その後イギリスに戻ると、シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーという人物に

その思想や人柄が気に入られ、35歳になる頃には彼の秘書兼主治医という、

異色の組み合わせの職に就くことになりました。

シャフツベリ伯爵と出会ったときは、

まだ執筆活動などを行っていなかったジョン・ロック。

それにもかかわらず、伯爵に気に入られ恩恵を受けることができたのは、

やはり彼自身の非凡さが既に現れていた証拠にもなります。

しかしジョン・ロックが50歳を迎えた頃、

伯爵が王に対する反逆罪の罪に問われ、オランダに亡命します。

自身も迫害を恐れたジョン・ロックは、翌年に伯爵のいるオランダに亡命。

その後は、約6年間オランダで亡命生活を送ることになりました。

偉大さは書物の中に

亡命生活の末に、無事イギリスに戻ったジョン・ロック。

彼の著作の大半が、50代半ばから書き始められていると言われています。

彼が遺した思想は哲学や政治に限らず、法学や経済学、自然学など、

後の時代のあらゆる分野に影響を与えることになりました。

しかしそんな偉大な哲学者は意外にも、

彼自身の特徴を伝えるような目立ったエピソードは遺していないのです。

 

きょうのまとめ

今回は、17世紀に活躍したイギリスを代表する哲学者、

ジョン・ロックの生涯についてご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ジョン・ロックとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 17世紀のイギリス人哲学者。政治哲学者。他にも医学、自然学、経済学などあらゆる分野に精通していた。

② 著作『人間知性論』では、認識論に関する新たな理論を展開し、「イギリス経験論の父」と呼ばれている。

③ 著作『統治二論』で論じた自由で平等な市民活動に基づく社会契約論は、後の「アメリカ独立宣言」や「フランス人権宣言」に大きな影響を与えた。

歴史的な出来事に影響を与えるほどの思想を生みながらも、

彼自身は決して目立つような人柄ではなかった、ジョン・ロック。

しかし表面上が穏やかだった分、

その内面は常に深く目まぐるしく波打っていたのです。

 

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