覚悟が詰まった北里柴三郎の名言

 

北里柴三郎きたさとしばさぶろうは、多くの言葉を残しています。

生涯におけるいろんな場面で残した彼の言葉は、そのときの立ち場や状況によって変化した彼の考えを映す鏡のようです。

彼の名言を辿って北里柴三郎の考えについて知っていきましょう。

 

医学と医者について考え続けた北里柴三郎

北里柴三郎

北里柴三郎
出典:Wikipedia

医学を学ぶ過程の北里の変化がよくわかる言葉をいくつかご紹介します。

国の役に立つには、軍人だ!

もともと北里は医者になどなりたくありませんでした。

こんな言葉を残しています。

「医者と坊主は、手足をそなえた一人前の人間の為すべき業ではありません。柴三郎、この世に生をうけてより、志は天下国家にあるのです。わたくしはそのためにこそ、ひたすら武を練り、文を学んで今日にいたりました。なんでいまさら便々と、本読みの連中に加われましょうや」

武道に励み、勉学にいそしんできた自分が、青白い顔の「本読みの連中」の仲間になどなれるものか、自分の志は国家のためにあると言いました。

本人は軍人になりたかったのです。

しかし親の希望に沿うためだったのか、1871年に地元の古城医学所病院に入学。

オランダ軍医のマンスフェルトに出会いました。

もともと頭は良いし、努力家でもあった北里は、オランダ語を猛烈に勉強して1年後には通訳ができるほど上達。

しかし、その目的は医学のためではなく、オランダ語を用いて文明開化に貢献したいと考えていたようです。

よし。医学を目指そう!

優秀でありながら、医学に興味を示さない北里に対し、マンスフェルトは顕微鏡で人体の組織を見せました。

その時に北里は医学とは、ただ本をよんで知識を詰め込むだけのものではなく、眼の前にある事実に基づいた意味のある学問であることを悟りました。

北里
医学また学ぶに値する

北里はそう言ったのです。

彼が本気で医学を志し始めた瞬間の言葉でした。

なぜ自分は医者になるのか

東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学した北里は、1877年頃から同盟社という学生結社を組織しました。

社会に訴え、役に立つ社会活動を実践するため、毎週土曜に演説会を開き弁舌を磨いたそうです。

当時書いた『医道論』という演説原稿があります。

その中で、

北里
人民に摂生保健の方法を教え体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐこと

が重要だと述べています。

学生の身分でありながらも北里は、

「医者の使命は病気を予防することにある」

と、予防医学の重要性を確信していたのです。

役に立つ医学を!

彼はその『医道論』の中に

「医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目あてに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない」

と記しています。

つまり、

「研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ」

ということ。

その時の彼は、医学には病気を治すことだけではなく予防する力があること、そしてそれが国を富ませる力にもなるということに気づいたのです。

これから医者を目指す学生たちに、ただ商売のようにして医業を営むような悪い習慣を捨てて、本当の医学を目指すべきだと鼓舞しました。

 

細菌学者としての誇りに満ちた言葉

北里にとってのドイツ留学は大変意義深く、細菌学者としての知識に加え、その哲学を学んだことは貴重な経験でした。

命の杖となるために

北里は1885年からベルリン大学へ留学しています。

あの「近代細菌学の開祖」と呼ばれるコッホに師事したのです。

留学期間を2度も延長した6年間のドイツ滞在中、北里は世界が驚く業績を上げました。

最後に北里が帰国となった時、北里はコッホに誓いました。

北里
細菌学者は、国民にとっての命の杖とならねばならない

これは、以前にコッホが細菌学を学ぶ意義を「命の杖」と例えて説明したことを受けての言葉でした。

コッホの信条を自分のものとして、北里は「命の杖」となるべく日本へ帰国したのです。

真実を伝える勇気

北里と同郷で、東京医学校の同期生に緒方正規おがたまさのりという人物がいました。

留年を繰り返した北里と違い、彼は順調に学業を修めています。

先に職を得て順調にキャリアを積んだ緒方こそ、北里がベルリン大学で留学できるように便宜を図った人物でした。

その緒方は、東大教授兼衛生局試験所所長となり、北里の留学中に「脚気菌」を発見したという論文を発表しました。

当時脚気は年間3万人が脚気で死亡するという恐ろしい病気。

しかし北里は、すぐに論文を書いて緒方の説を否定したのです。

「(菌と)脚気とは無関係である」

そう書かれた論文は、当時の医学界特に東大から大きな反発を受けました。

脚気はビタミンB1の不足で起きる病気ですから、菌と脚気は無関係であり、北里の主張は正しいのです。

しかし、彼は「恩を忘れた輩」と呼ばれ、帰国後には活躍の場を一時失うほどでした。

もちろん、北里はその反発を予想しなかったわけではありません。

しかし、真実を伝え、正しい治療を行わなければ患者や犠牲者が増えるばかりです。

非難を受けても正しい主張をした北里の正義感と医者としての覚悟が感じられます。

 

きょうのまとめ

今回は北里柴三郎の残した言葉から、彼の心境の変化、そして細菌学者としての考え方や行動についてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 医師を目指していなかった北里柴三郎の心境の変化は、彼が残した言葉から読み取れる

② 北里は、すでに学生時代から予防医学の重要性を悟り訴えていた

③ 北里は、細菌学者としての良心と正義感を行動に移し、世間に流されることなく人々の「命の杖」となろうとした

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku