北畠顕家の墓とゆかりの地を訪ねる~大阪阿倍野・堺石津・福島霊山~

 

南北朝時代、南朝方武将の代表格として活躍した“花将軍”北畠顕家(きたばたけあきいえ)。

彼の墓やゆかりの地は全国に点在しております。

今も人々に手厚く信仰されるその場所を紹介しましょう。

 

大阪市阿倍野区

北畠公園

大阪市阿倍野区王子町にあります。

『太平記』には北畠顕家は北朝方と阿部野で戦って敗れ、亡くなったと記されております。

その後江戸時代になってから、並河誠所という国学者が研究により、今公園内にある塚を顕家の墓と定めました。

墓の四方を柵や門できれいに囲われ、なかには木々がうっそうと生い茂っております。

また、同じ阿倍野区には北畠顕家ととても因縁深いこんな神社があります。

阿部野神社

大阪市阿倍野区北畠にあります。

ここの祭神は北畠親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)父子。

親房といえば、南朝の正統性を記した『神皇正統記』の作者として知られております。

かつて、この近くで北畠顕家は北朝方が合戦におよびました。

そして、顕家が亡くなったと伝えられる地に、明治になってから祠(ほこら)が建てられたのがこの神社の始まりです。

彼らの知恵と勇気にあやかってみるのもいいでしょう。

毎年5月22日には顕家の命日にちなんで春季大祭がもよおされます。

10月18日には親房の命日にちなんで秋季大祭が開かれます。

 

堺市石津

阪堺線と南海本線の間、石津川には太陽橋という橋が架かっております。

その南詰めの木々の生い茂っているところにあります。

『神皇正統記』には、北畠顕家は最後、石津に戦って敗死した、と書かれています。

ここはまさにその亡くなった地と言われます。

 

福島県伊達市

霊山神社(りょうぜんじんじゃ)

福島県伊達市霊山町にあります。

ここ霊山は北畠顕家の東北地方における本拠地でした。

ここの祭神は南朝方として戦った北畠親房、顕家、顕信(あきのぶ※1)、守親(もりちか※2)の4柱です。

こちらは明治になってからかつて会津(あいづ)藩筆頭家老であった西郷頼母(たのも)が神職を務めたことがありました。

(※1)北畠顕家の弟

(※2)北畠顕信の次男

西郷頼母

西郷頼母とは、幕末に会津藩が京都守護職の役目を引き受けるのに反対。

その後会津藩は京都守護職を引き受け、京都見廻り組(※1)や新撰組(※2)を組織するなど、維新志士たちに目の敵(かたき)とされます。

やがて時代の大きなうねりで薩長などの新政府方がどんどん東へ攻め込み、会津藩もピンチにさらされます。

そんな時に、頼母の一家は頼母とその長男をのぞいた女子供は

「敵の手にかかるより」

と、みんな自害してしまいます。

頼母とその長男は城に入り、議論しますが、ほかの多数派と意見が折り合いません。

そこで味方の軍への「使者」という役目をもらい、暗に城を追放されます。

その後、箱館戦争に旧幕府方として参戦。

戦いに敗れて捕らえられますが、2年後に許され、以後明治36年まで生きぬきました。

(※1)京都の治安を守るために組織された隊。坂本龍馬暗殺の真犯人である可能性がとても高い。

(※2)京都の治安を守るために組織された隊。近藤勇、土方歳三、沖田総司などで有名。

霊山城

霊山神社から県道31号線で南東方面へ5.4km。

標高825m、霊山の山頂付近に碑が立てられております。

もとは859年天台座主(ざす)の慈覚大師円仁によって開かれた修行場でした。

しかし、1337年北畠顕家は陸奥(むつ。今の東北地方東側)国府を多賀城(現在、宮城県多賀城市にある)からこちらに移したのがこの城の始まりです。

1347年には北朝方の吉良貞家(きらさだいえ)によって落とされ、応永年間(1394~1427年)には廃城となりました。

 

きょうのまとめ

① 大阪阿倍野には北畠顕家の墓がある北畠公園と北畠父子をまつる阿部野神社がある

② 堺市石津には北畠顕家の墓がある

③ 福島県伊達市には北畠一族をまつる霊山神社と霊山城跡がある

 

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