紀貫之とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

平安時代に活躍した歌人・紀貫之

日本の学校では国語の時間、必ずと言っていいほど、彼の和歌について習いますよね。

ですが紀貫之は歌人である以前に、朝廷に仕える役人であったことをご存知でしょうか。

一体、紀貫之とはどんな人物で、どのような人生を送ったのでしょう。

 

紀貫之はどんな人?

プロフィール
  • 出身地: 平安京(現在の京都)
  • 生年月日: 870年頃(諸説あり。この記事では871年としています)
  • 死亡年月日: 946年(945年とする説あり)
  • 平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。日本の文学に大きな影響を与えた人物。

 

紀貫之 年表

年表

西暦(年齢)

871年(1歳?)京都に生まれる。(幼名、阿古久曽/あこくそ)

893年(23歳?)寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)に参加

898年(28歳?)朱雀院女郎花合(すざくいんおみなえしあわせ)に参加

905年(35歳?)『古今和歌集』を撰進する。御書所預(おんふみのところのあずかり)となる。

906年(36歳?)越前権少掾(しょうじょう)となる。

907年(37歳?)内膳典膳(ないぜんてんぜん)となる。

910年(40歳?)少内記(しょうないき)となる。

913年(43歳?)亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)に参加。大内記となる。

917年(47歳?)従五位下(じゅごいげ)に昇進。加賀介となる。

918年(48歳?)美濃介となる。

923年(53歳?)大監物(だいけんもつ)となる。

929年(59歳?)右京亮(うきょうのすけ)となる。

930年(60歳?)土佐守となる。『新撰和歌(集)』の編纂。

935年(65歳?)帰京。『土佐日記』の成立もこの頃?

940年(70歳?)玄蕃頭(げんばのかみ)となる。

943年(73歳?)従五位上に昇進。

945年(75歳?)木工権頭(もくのごんのかみ)となる。

946年(76歳?)死去

1904年 贈従二位

 

「歌人」として生きた紀貫之の生涯

紀貫之は紀望行(もちゆき)の子として、京都に誕生しました。

紀氏といえば、政界で輝かしい歴史を有する名門です。

出世の道を断たれる

例えば、紀貫之の5代前の船守(ふなもり)は桓武天皇を助け、平安京遷都に尽力した人物です。

さらに祖父・本道(もとみち)のいとこである紀有常(ありつね)は、

惟喬(これたか)親王(※1)の後見として、藤原北家と皇位継承権争いをした人物でした。

※1 文徳天皇の第1皇子で、母親は紀氏出身。立太子争いで敗れ、大宰帥(だざいのそち)などを務めた。

 

しかし、紀貫之の時代には藤原氏が台頭

したがって、紀貫之には政界での出世の見込みはなかったと言われています。

そこで自身は歌人として道を開き、家の再興を図ろうとしたのではないかと考えられています。

 

関連記事 >>>> 「紀貫之の子孫に坂本龍馬がいるって本当?名門紀氏の系図を見てみる」

 

『古今和歌集』の撰者に

和歌だけでなく、漢詩の教養なども身につけていた紀貫之。

若くして、寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)などの大規模な歌合に参加します。

そして醍醐天皇の命により作られることになった、日本初の勅撰和歌集『古今和歌集』撰者の一人にも選ばれました。

さらに紀貫之は『古今和歌集仮名序』という序文を執筆し、その後の日本文学に多大な影響を与えることになりました。

 

関連記事 >>>> 「紀貫之が書いた『古今和歌集仮名序』とは?内容も簡単に説明」

 

『土佐日記』を執筆

歌人としては超一流の紀貫之でしたが、やはり官位のほうは奮いませんでした。

土佐守として土佐に赴任し、そこから帰京する際の出来事を書いたのが『土佐日記』です。

『土佐日記』は女性がひらがなで書いた、という設定の作品。

その後の女流文学に、大きな影響を与えたことで知られています。

紀貫之ほどの才能の持ち主がもし官位に恵まれていたら、その後の日本文学の歴史もまた変わっていたかもしれません。

 

関連記事 >>>> 「紀貫之が『土佐日記』で性別を偽った理由などについて簡単に紹介」

 

貫之は年老いてから、やっと従五位上に昇進します。

ですが、最後に就いていた役職は木工権頭(もくのごんのかみ)という、宮廷の建築などを担う役所の長官(※2)でした。

※2 「権」が付いていますが、実質的に長官と捉えられるという考え方もあります。

 

生涯を通じて出世することなく終わった紀貫之でしたが、明治37年には明治政府より従二位が贈られています。

役人としては日の目を見なかったものの、歌人としての偉大な功績が認められた証なのでしょう。

 

関連記事 >>>> 「紀貫之の代表作を現代語訳とともに紹介」

 

紀貫之にまつわるエピソード

それでは上記に収まりきらなかった、紀貫之にまつわるエピソードについて紹介します。

幼名「あこくそ」ってそういう意味?

上記でさらっと紹介しましたが、紀貫之の幼名は阿古久曽(あこくそ)だったと伝えられています。

なんだか不思議な響きだとは思いませんでしたか。

そうです、あこくその「くそ」とはの意味です。

 

子どもにそんな名前を付けるとは何事か? と現代に生きる私たちは驚きますよね。

しかし、かつてはあえて子どもに「汚い」名前を付けることがあったのです。

それは、当時の子どもの死亡率の高さが原因でした。

 

そこで不浄な名前を付けることにより、命を奪うと考えられていた魔物たちから子どもを守ろうとしたのです。

ちなみに「○○丸」という幼名も、おまるから来ていると言われています。

ですので、馬鹿にしたらダメですよ。

子を大切に思う、親の願いが込められているのですから。

正岡子規にディスられていた

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

などの句で有名な正岡子規

言わずと知れた明治時代の俳人・歌人です。

そんな正岡子規が、紀貫之のことをディスっていたのをご存知でしょうか。

 

子規は『歌よみに与ふる書』という歌論の中で『万葉集』を賞賛した一方、『古今和歌集』を批判していたのです。

その中でも強烈なのが、こちらです。

貫之(つらゆき)は下手(へた)な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之(これあり)候

(引用:日本大百科全書(ニッポニカ)「歌よみに与ふる書」

 

わざわざ紀貫之の名前を挙げて、下手くそと記しています。

なにか個人的な恨みでも……と思いますが、相手は平安時代の人物。

紀貫之と『古今和歌集』をディスった理由は、下記のように考えられています。

 

その頃、桂園派(けいえんは)と呼ばれる和歌の流派がありました。

特に『古今和歌集』を重んじる桂園派は、当時の歌壇の主流となっていました。

他方で短歌革新を目指していた正岡子規にとって、それらの勢力に対抗するには『古今和歌集』と紀貫之をこき下ろす必要があったのです。

 

関連記事 >>>> 「紀貫之の百人一首の歌には続きがあった?意味と背景を紹介」

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

紀貫之とは?

① 名門・紀氏に生まれるも、藤原氏の台頭によって役人としての出世は見込めなかった

② 歌人として生きる道を選び、『古今和歌集』の撰者に選ばれるなど評価された

③ 幼名「阿古久曽」は、子を大切に思う親の想いが込められた名前だった

④ 明治時代には正岡子規の都合により、批判されることもあった

こちらのサイトでは他にも、平安時代に活躍した歌人についてわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、お読みになってください。

 










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