木戸孝允かつての名は桂小五郎だけじゃない!木戸孝允を名乗るまでの経緯

 

木戸孝允きどたかよしの若い頃の名は、

桂小五郎かつらこごろうだったと聞いたことはありませんか?

そうなんです、ざっくりとご説明すると、

幕末は桂小五郎、明治は木戸孝允という名であったという理解が一般的です。

ですが実は「桂小五郎」の他にも、木戸孝允がかつて使用していた名前があったのです。

今回は、木戸孝允が「木戸孝允」を名乗るまでのストーリーを追っていきたいと思います。

 

木戸孝允が「木戸孝允」を名乗るまで

和田家に生まれるも桂家の養子に

桂小五郎は1833年6月、長州藩(現在の山口県)の藩医・和田家の次男として誕生しました。

ということは初めは和田小五郎だったのですね。

そして小五郎は7歳ごろ、同藩の桂九郎兵衛という人物の養子になりました。

桂家というのは由緒正しき家柄だったのですが、その家の夫婦は病弱で子供がいませんでした。

そこで少年・小五郎に白羽の矢が立ったというわけです。

桂家を継いだことから、桂小五郎を名乗ることになりました。

しかしその直後には養父、翌年には養母が亡くなります。

残された小五郎の姓はそのまま桂でしたが、それ以降は実家の和田家に育てられることとなります。

桂小五郎という名前は、その後しばらく続くきます。

成長した小五郎は高杉晋作や久坂玄瑞くさかげんずいらとともに、尊王攘夷運動のリーダーとなりました。

そのため、幕府からも目を付けられることになりました。

そこで「新堀松輔」や「広江孝助」などといった名前を使い、幕府の目をかいくぐっていたそうです。

他にもいくつかの偽名を使っていたと言われています。

藩主から「木戸」姓をもらう

1865年9月、桂小五郎は藩主に改名を願い出ました。

それは当時、桂小五郎は池田屋騒動(京都の旅宿・池田屋に集まっていた尊王攘夷派の志士たちを、新撰組が襲撃した事件。)から逃れて帰ってきたため、

幕府からの追及を避ける必要があったからです。

幕府から指名手配を受けている「桂小五郎」という人物は、あくまでも行方不明ということにしたそうです。

このとき桂は会合の時間より早く到着し、一旦池田屋から出ていたために無事だったそうです。

といった事情から、桂小五郎に対して藩主の毛利敬親もうりたかちか「木戸」姓を与えました。

そして下の名前も「貫治」と称することになったと言われています。

あの薩長同盟を結んだ際には、「木戸貫治」だったとか。

その後、貫治は準一郎とも称したそうです。

明治になってから「孝允」を名乗る

「木戸孝允」を名乗るようになったのは、明治時代に入ってからと言われています。

それまでは通称といみな(実名のこと)を併用することができましたが、戸籍制度が開始とともに統一する流れになりました。

「小五郎」というのは通称で、「孝允」というのは桂家の当主となって以来の諱でした。

そこで毛利敬親からもらった「木戸」とである「孝允」を組み合わせ、「木戸孝允」を名乗ることになったのです。

さらに孝允は「たかよし」と読むのが正しいのですが、呼びにくいとの理由で「こういん」と読むこともあるそうです。

 

きょうのまとめ

今回は、桂小五郎こと木戸孝允の名前に着目したエピソードをご紹介しました。

木戸孝允は、

① 生まれたときは「和田」姓だった

② 桂家に養子に入ったため「桂小五郎」を名乗った

③ 幕府からの追及を逃れるために使っていた偽名がいくつかある

④ 藩主から「木戸」の姓をもらい、「木戸貫治」を名乗った

⑤ 「木戸準一郎」と名乗っていた時期もあった

⑥ 明治になってから「木戸孝允」を名乗った

この他にも、木戸孝允や明治維新にまつわる記事をたくさん書いています。

こちらの記事で興味を持たれた方は、是非ともご覧になってくださいね!

木戸孝允の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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