木戸孝允の死因は心血管障害?意外に多い病歴について

 

明治維新の立役者である木戸孝允は、1877年に病気で亡くなったと言われています。

時は、あの西郷隆盛が反乱軍を指揮した西南戦争の最中でした。

木戸孝允の最期の言葉は「 西郷、もう大抵にせんか 」だったとも伝えられています。

それでは、木戸孝允を死に至らしめた病気はなんだったのでしょうか。

今回は木戸孝允の死因について、ご紹介していきます。

 

考えられている死因はいくつもある

ネット上で「 木戸孝允 死因 」などで検索すると、様々な説が出てきます。

そこを何とか、ひとつに絞って欲しいのがファン心ではありますよね。

ですが実際には、単純に推測することは難しいようです。

明治期多くの病に苦しめられた木戸孝允

新国家樹立のため、さまざまな困難を乗り越えてきた木戸孝允ですが、明治に入ると様々な病気に悩まされることになったそうです。

明治元年には1カ月もの間、腹痛を訴えたり、翌年には激しい下痢に襲われたりもしたそうです。

その後は慢性的な腹痛と下痢に悩まされるようになったといいます。

そして明治6年には落馬して頭を強く打ち、それ以来、頑固な頭痛まで抱えることになったそうです。

さらには左下肢もマヒしてしまい、不自由な生活を強いられることになりました。

もうここら辺にして欲しいのですが、加えて持病の歯痛によって、30代にして9本の歯を抜いていたそうですから驚きです。

奇病のためお休みします

ここまで来たら、何が原因で死んでもおかしくないようにも思えます。

西郷隆盛や板垣退助が下野した明治六年の政変の際、政府は緊急会議を招集しました。

そのとき木戸孝允は大久保利通に対して、「 不慮(ふりょ)の奇病 」のため出席できないと手紙を出したそうです。

なんと、奇病と来ましたか・・・。

私が大久保利通だったら、病気がちの木戸さんなら仕方がないと思うかもしれません。

お大事に、としか返せません。

痛みを我慢して京都へ

明治10年1月、胸背部に木戸は痛みを感じていたものの、それを我慢して京都へ赴きます。

それは明治天皇の行幸に従うためでした。

そしてその翌月には、西郷隆盛が薩摩軍を率いて、西南戦争が勃発します。

これに対して木戸は、西郷の弾に当たれば大往生を遂げられると言い、自身も出陣することを望んだといいます。

結局、それは叶いませんでしたが・・・。

死因は心血管障害だった!?

またこの年の四月から、木戸は急激に衰弱していきました。

肝臓肥大と血便がひどくなったそうです。

5月6日を最後に、それまで長年書き続けてきた日記も途絶えることになります。

同月の19日には、明治天皇自らが木戸を見舞い、感激の涙を流したそうです。

しかし同月26日の午前、木戸孝允は息を引き取りました。

享年45歳でした。

死因としては心血管障害とここでは書いておきますが、他にも前述した下痢・腹痛、すい臓がんなども疑われているそうです。

 

きょうのまとめ

今回は木戸孝允の死因についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

木戸孝允は、

① 明治に入ってから、いくつもの病気に苦しめられた

② 明治六年の政変の際の緊急会議を「 奇病 」のために欠席した

③ 疑われる死因は心血管障害、慢性的な下痢・腹痛、すい臓がんなど、いくつかある

こちらのサイトでは他にも、木戸孝允や幕末に関するわかりやすい記事をたくさん書いています。

興味を持たれた方は、ぜひご覧になってくださいね。

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