源頼朝に従って挙兵し、鎌倉幕府の創成を支えた御家人のひとり
上総広常。
圧倒的な実力をもちながら、早々に暗殺されたために活躍できず、あまり知られていないこの人。
暗殺されたのは力をもち過ぎていたためともいえ、そういう意味でも気になる人物です。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、佐藤浩市さんに配役が決定。
放送に先駆けて、広常がいったいどんな人物だったのか、しっかりチェックしておきましょう。
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上総広常はどんな人?
- 出身地:上総国(現・千葉県中部)
- 生年月日:不明
- 死亡年月日:1183年2月3日(享年 不明)
- 上総国・下総国に所領をもち、関東隋一の勢力を誇った有力武将。源頼朝の平氏討伐に協力するも、謀反を疑われ誅殺された。
上総広常 年表
年代不詳(1歳)上総権介・平常澄の八男として生まれる。
1156年(?歳)源氏の棟梁・源義朝に従い、「保元の乱」に参加。
1159年(?歳)源氏に従い「平治の乱」を戦うも敗戦。領国へ下る。
1179年(?歳)平家の家人・伊藤忠清が上総介に任じられ対立。平清盛に勘当される。
1180年(?歳)源頼朝が平氏討伐を掲げ挙兵。2万の兵を率いて勢力拡大に協力した。
1183年(?歳)頼朝から謀反の疑いをかけられ、御家人・梶原景時らに誅殺される。
上総広常の生涯
以下より、上総広常の生涯にまつわるエピソードを紹介します。
関東の有力豪族・上総氏
上総広常は、上総国の在庁官人・平常澄の八男として生まれました。
常澄の官職は上総権介といい、これは実質、上総国においては一番上の地位。
一族は桓武天皇の子孫である坂東八平氏の一角で、平忠常を始祖とし、房総半島で勢力を極めた房総平氏の系統にあたります。
広常の生年は不明で、幼少期の逸話などはほとんど残されていません。
しかし、あくまで伝説の類ですが、若いころのエピソードがひとつ残っていました。
それは、絶世の美女・玉藻前に化けて鳥羽上皇を騙していた九尾のキツネを退治したというもの。
このとき、相模国三浦荘の官人・三浦義明が弓でキツネを射抜き、動きを止めたところを広常が斬り伏せたとされています。
ほんとかどうかは疑わしい話ですが、広常がそのぐらい武名を知られた人物だったことを表していますね。
栃木県の那須町では、今もこのキツネの成れの果てとされる殺生石が観光スポットになっています。
殺生石に近づく者はみんな死んでしまうため、その名前が付いたのだとか。
源義朝に従って戦う
上総氏は父常澄の代から、源氏の棟梁・源義朝に仕えており、「保元の乱」「平治の乱」では、広常も義朝の兵として戦っています。
特に活躍したのは、平治の乱において。
このとき、義朝の長男・義平が平重盛を退ける奮闘を見せており、広常も義平が率いた十七騎のひとりだったとされています。
しかし、最終的に源氏は敗北することになり、このあと朝廷の覇権は平氏が牛耳っていくことに。
そのため、以降は広常も平氏に下ることとなりました。
父常澄が義朝に仕えたのは、ふたりがお互いに関東での勢力を強めようとしており、利害が一致していたため。
そのため広常は形勢が平氏に傾いた際も、従うことに抵抗はなかったのかもしれませんね。
その後、長兄の常景、次兄の常茂らと家督を争ったのち、広常が上総氏を引き継ぐことになりました。
八男でありながら兄たちを退けた広常は、やはり並みの武将ではなかったのでしょう。
平家への反感
平氏に下り、その地位も保証されたものと思われた上総氏。
しかし1179年のこと、平氏と再び袂を分かつ出来事が勃発します。
上総介の官職に、平家の重臣・伊藤忠清が任じられるのです。
どうして代々上総国を治めてきた上総氏を差し置いて?
その反感から広常は忠清と対立することになり、平清盛から勘当を言い渡されてしまいます。
源氏とも平氏ともつかず、長いものに巻かれてきた広常でしたが、この出来事をきっかけに平氏を敵とみなすようになるのでした。
源頼朝の挙兵に従う
1180年、平氏と後白河法皇が対立したことにより、法皇の第三皇子・以仁王が全国の源氏へと、平氏討伐の令旨を下しました。
源頼朝もこれに呼応して挙兵。
房総半島で勢力の拡大を企てていたところへ、広常が合流しました。
界隈で隋一の勢力を誇っていた広常は、このとき、頼朝が主君の器にふさわしい人物かどうか、試しています。
広常は頼朝のもとへ予定よりも遅れて参陣し
と、様子を伺っているのです。
反応次第では、頼朝を討ってやろうと考えていたとも。
結果、頼朝は広常の遅参に激しく怒り、その威厳から、広常は忠誠を誓うようになるのです。
鎌倉入りを果たしたあとには、冷静な対応で頼朝をサポートした逸話もあります。
富士川の戦いで平氏勢を退けた頼朝は、このまま近畿へ攻め込み、平氏を一気に潰してしまおうと勢いづきました。
広常はこのとき、
と主張し、頼朝のはやる気持ちを抑えたといいます。
佐竹氏と姻戚関係にあった広常は、当主の佐竹義政を個人的に呼びだして暗殺。
佐竹氏攻略に大きく貢献しました。
謀反を疑われ暗殺される
御家人のなかでも抜きんでた力をもっていた広常ですが、残念ながら源平合戦での活躍はありませんでした。
1183年のこと、頼朝に謀反を疑われ、御家人・梶原景時によって暗殺されてしまうのです。
景時は広常と双六に興じる最中、その盤上を乗り越えて喉元を掻き切ったという話。
しかし実のところ、広常に謀反の意志はなく、のちに見つかった広常の書状には、頼朝の武運を祈る旨が記されていたといいます。
頼朝はこれを読むと広常を討ったことを後悔し、処分された一族も赦免されることとなりました。
なぜ広常は謀反を疑われた?
謀反を疑われた理由に関して、頼朝は後白河法皇と会談した際、広常がこう話していたためとしています。
たしかに、朝廷が呼びかけた平氏討伐に応えた頼朝の意志に反していますね。
でも、法皇を前にしたゆえの建前のような気がして、いまいち腑に落ちない感じも否めません。
もっとほかに理由があったのでは?
実は広常は鎌倉入り後、横柄な態度が目立ったという逸話が残されていて、ほんとのところは、これが災いしたと考えられます。
プライドが高かった広常
広常の横柄な態度を示すものとして、有名なのは頼朝が避暑のため、相模国三浦荘へ訪れたときの話。
このとき、三浦氏が開いた宴に広常も参加しました。
この宴に頼朝がやってきた際、御家人一同が馬を降りて挨拶しているなか、広常だけが馬を降りなかったというのです。
御家人・三浦義連が諫めるも、応じようとせず。
さらに御家人・岡崎義実が、水干という高価な装束を頼朝から賜ると
と言い、岡崎と口論になったという話もあります。
広常は相当にプライドが高い人だったのですね。
関東隋一の有力武将として、”自分は頼朝にも引けを取らない”というような思いがあったのでしょう。
きょうのまとめ
あまり武名の残っていない上総広常ですが、彼が腕の立つ武将であったことは、その生涯の随所に表れていました。
源平合戦に参加していれば、それこそ大活躍していたかもしれませんね。
最後に今回のまとめです。
② 源頼朝の挙兵に2万の兵を率いて従い、勢力拡大に貢献。常陸国佐竹氏の討伐などに功を挙げた。
③ 源平合戦にいたる以前に、頼朝から謀反を疑われ暗殺される。原因は朝廷を軽んじる発言のため?日頃から横柄な態度が目立ったため?
謀反を疑われた経緯などにも、注目したいところです。
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