たった2年しか在位しなかった
花山天皇について知っている方は多くはないかもしれません。
奇行や好色のエピソードが多いながらも、意外な側面も持つ天皇だったようです。
素顔の花山天皇は一体どんな人物だったのでしょうか。
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花山法皇はどんな人?
- 出身地:京(現在の京都市)
- 生年月日:968年10月26日
- 死亡年月日:1008年2月8日(享年41歳)
- 藤原氏の策略によって出家させられ、帝位を追われた天皇。常識外れな行動が多いながらも和歌に熱心で、西国三十三所巡礼の中興の祖として活躍
花山天皇 年表
西暦(年齢)
968年(1歳)冷泉天皇の第一皇子・師貞親王として誕生
969年(2歳)円融天皇の即位と同時に皇太子となる
984年(17歳)天皇即位し花山天皇となる
986年(19歳)天皇を退位し、出家。花山法皇となる。寛和の変
996年(29歳)藤原伊周・隆家に矢で射られる花山法皇襲撃事件(長徳の変)が起き、伊周・隆家が流罪となる
1008年(41歳)崩御
花山天皇の生涯
2年という短い期間の天皇在位中、花山天皇は顕著な政治的・社会的な業績を上げることはありませんでした。
しかし、彼の生涯が決してのんびり平穏無事なものだったわけではありません。
花山天皇誕生から即位
花山天皇は968年、冷泉天皇の第一皇子師貞親王として誕生しました。
母親は藤原伊尹の娘の懐子です。
翌969年、父親の冷泉天皇は皇太子時代からの気の病が悪化したため、同母弟に譲位して円融天皇が誕生しました。
そのとき同時に、わずか2歳の師貞親王が皇太子となったのです。
そして984年、円融天皇が譲位したため師貞親王は天皇即位し、17歳で第65代花山天皇となりました。
出家と退位
しかし、皇太子時代には摂政を経験していた外祖父・藤原伊尹の威光の恩恵にあずかれた師貞親王も、即位して花山天皇となった時には頼りの外祖父は亡くなってしまっていました。
実は、かなりの女好きで奇行も多かった花山天皇は、天皇としての自覚が足りなかったかもしれません。
しかも有力な外戚を持たない花山天皇は、在位期間も短く2年足らずで退位して出家し、一条天皇に天皇の座を譲りました。
この花山天皇の出家については、藤原氏による画策があったとされています。
必ずしも本意ではなかったのに半ば騙されるようにして出家してしまった花山天皇は、天皇として特に何もできないまま退位を余儀なくされてしまいました。
出家した19歳の青年花山法皇は失意のまま熊野詣へと旅立ちます。
帰京してからの花山法皇、崩御
その後の花山法皇は西国を巡礼し、晩年に帰京するまでの10数年間は修行や隠遁生活を送っていました。
皇太子、天皇時代からも問題となっていた花山天皇の振る舞いは、法皇となってからも変わることはなく、都に戻ってからも奇行や女性問題などが多かったと言われます。
特に出家後の有名な事件としてあげられるのは、996年におきた花山法皇襲撃事件です。
花山天皇が、中関白家の内大臣・藤原伊周と弟の隆家によって、衣を矢で射られるという事件でした。
これは、藤原伊周が通っている女性の元へ花山法皇も通っていると誤解したことから起きたものです。
花山法皇は出家した身でありながら女性を求めていたことの体裁の悪さと、命を落としかねなかった恐怖から、事件を口外しようとはしませんでした。
しかし、伊周のライバルであった藤原道長は、これを好機とばかりに事件を利用し、藤原伊周と隆家の兄弟を流罪にして追放し、政治的な力を確実なものにしていったのです。
その後の花山天皇には大きな事件が起きることはなく、1008年に41歳にて崩御しています。
問題行動のあった花山天皇の意外な業績
奇行が多かったと言われ、出家したあとも女性関係が派手だった好色の法皇でしたが、修験者として活躍し、芸術面でも優れた才能を現わしています。
西国三十三所巡礼
出家した花山法皇が巡った場所は「西国三十三所巡礼」として現代に伝わっています。
原始的な巡礼は花山法皇の時代以前から古い形で存在していたのでしょうが、本格的な巡礼として意識され整備されたのは、この近畿地方における三十三所巡礼が最初だと言われています。
近畿2府4県と岐阜県に点在する全33箇所の観音信仰の霊場のことは「西国三十三所巡礼」と呼ばれ、花山法皇はその中興の祖として功績を讃えられています。
中でも摂津国の東光山(現・兵庫県三田市)を特に気に入っていた法皇は、京に帰るまで長くそこで過ごしたのだそうです。
そのため、東光山には御廟所も作られ、西国三十三所巡礼の番外霊場ともなりました。
この西国三十三所では、仏を讃える歌として「御詠歌」と呼ばれるものが多くの寺院で採用されています。
その起源は花山法皇が各札所で詠んだ和歌が原型となっているのです。
和歌に後世の巡礼者が節をつけて歌にしたもので、現在でも宗派によってはお盆やその他の仏事で合唱されているそうです。
花山天皇が残した和歌
花山天皇は決して長くない生涯の中で芸術的な才能を発揮した人物でした。
中でも特に和歌には力を注ぎ、在位中の985年と翌年に内裏で和歌によって勝敗を競うイベント・歌合を主催するほど熱心だったのです。
また、私撰和歌集『拾遺抄』の増補、勅撰和歌集である『拾遺和歌集』を親撰(天皇などの命により歌集を編纂すること)しました。
花山天皇は巡礼しながら多くの和歌を作っています。
出家し、失意のうちに熊野に向かった時にも、その旅の途中で歌を詠みました。
熊野にて病に陥った法皇は、海士が塩を焼いているのを見て、
(旅の途中で息絶えて火葬される煙となったなら、人は海人が藻塩を取るための火を焚いていると見るのだろうか)
という和歌を残しています。
この『後拾遺和歌集』に残された歌は、いかにも悲しげですね。
花山天皇の墓
最後に花山天皇をしのぶ墓所についていくつかご紹介いたしましょう。
紙屋川上陵
花山天皇は崩御したあと、紙屋川上陵と呼ばれる円墳に眠っていると言われています。
実は、一時花山天皇の陵の所在地がわからなくなっていました。
『日本紀略』には「紙屋川の上、法音寺の北」と記録が残っていることから、幕末になって法音寺の跡地があった場所に基づいて推定されました。
地元では菩提塚とも呼ばれています。
紙屋川上陵円墳:京都府京都市北区衣笠北高橋町
花山院菩提寺
651年に法道仙人によって開祖された古い寺院です。
ここに後世の人が作った花山天皇の御廟所(墓)や像、天皇が使ったと言われる古井戸があります。
寺名の通り花山法皇の菩提を祈るための寺院であり、西国三十三所巡礼の番外寺院となっているお寺です。
花山天皇に仕えた女官たちが天皇を慕って尼僧となり、住み着いたのがこの寺院の住所にある「尼寺」の由来だということです。
花山院菩提寺:兵庫県三田市尼寺352番
皇居・皇霊殿
皇居の宮中三殿の一つである皇霊殿には他の歴代天皇や皇族と共に花山天皇の霊が祀られています。
皇居・皇霊殿:東京都千代田区千代田1番1号
きょうのまとめ
今回は花山天皇の生涯や業績についてご紹介いたしました。
花山天皇とは
① 藤原氏の策略によりたった2年で出家し、退位せざるを得なかった悲劇の天皇
② 天皇・法皇時代を通して奇行、問題行動の多かった人物
③ 西国三十三所の中興の祖であり、『拾遺和歌集』編纂など信仰や芸術面で活躍した人
でした。
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