花山天皇が出家したのは藤原氏の陰謀だった!?

 

平安中期、花山天皇の在位期間は984年から出家するまでのたったの2年間です。

激しい性格で、芸術的なセンスが豊かだったという人物ですが、

天皇としての業績には、特筆すべきものはありません。

ところで花山天皇には、その出家にいたる経緯に藤原氏による陰謀めいた話があるのです。

 

花山天皇が出家に至る経緯

花山天皇

花山天皇
出典:Wikipedia

984年、冷泉天皇の第一子・師貞もろさだ親王は天皇に即位し、花山天皇となりました。

彼が17歳で即位したのには、円融天皇の摂政を務め太政大臣になった外祖父の藤原伊尹ふじわらのこれただの力が背景にありました。

しかし、彼が即位した時には伊尹は既に亡くなっていたため、

有力な後ろ盾を持たない花山天皇の地位は盤石ではありませんでした。

その後、花山天皇に続く天皇として懐仁やすひと親王が皇太子となりました。

すると、皇太子の外祖父である、右大臣の藤原兼家が花山天皇の早期退位を促します。

彼の下心としては早く自分の孫を天皇に即位させたかったのです。

そんな時、藤原為光ふじわらのためみつの娘・藤原忯子ふじわらのししのことを気に入った花山天皇は、彼女を女御として入内させ、寵愛しました。

しかし、985年に懐妊した17歳の忯子は、子供を身ごもったまま死亡。

これにショックを受けた花山天皇は、出家したいと言い出します。

若い花山天皇の性格を知る周囲の人々は、それが一過性の出家願望であると見抜き、何とか思いとどまらせました。

ところが、986年に19歳の花山天皇は密かに突然出家してしまったのです。

 

花山天皇出家騒動の顛末

花山天皇の出家劇にはやはり藤原兼家が関与していました。

「寵愛していた女御が亡くなった」ために花山天皇が自分で決心して出家したわけではなかったようです。

花山天皇出家を促す藤原兼家の陰謀

実は皇太子・懐仁親王の外祖父・藤原兼家が、彼の三男・道兼を使って花山天皇に出家をそそのかしたとされています。

道兼は、女御を亡くした花山天皇に同情するフリをして「共に出家しましょう」と持ちかけます。

その優しい言葉に傷心の花山天皇は、道兼に心を許してしまったのです。

そこで2人は共に内裏を抜け出し、元慶寺がんぎょうじ(花山寺)へ向かうと、まず天皇が剃髪しました。

次は道兼が剃髪する番です。

すると彼は「父親の兼家に事情を説明してきます」と言って寺を去ると、そのまま戻って来ませんでした。

自分だけ出家させられたまま、道兼の逃亡を悟った花山天皇は、「我をはかるなり」と慟哭したそうです。

これが花山天皇出家事件の顛末です。

花山天皇退位を急ぎたかった兼家の事情

右大臣だった藤原兼家は、自分の娘・詮子せんしを円融天皇に嫁がせていました。

そして懐仁親王が誕生すると、円融天皇が花山天皇に譲位した時に当時5歳の親王を皇太子とすることに成功しています。

そうなると、早く懐仁親王を天皇にして外戚関係のある自分が摂政として政治権力を握りたいと考えるようになった兼家。

彼にとって花山天皇は邪魔な存在となったのです。

藤原伊尹が亡くなり、後ろ盾を失った弱い立場の花山天皇は、兼家の差し金でやってきた息子の道兼に促されるまま出家してしまいました。

結果、兼家の孫・懐仁親王はわずか7歳で一条天皇として即位したのです。

兼家は一条天皇を後見しながら、まんまと摂政として政治の実権を握りました。

だまし討ちのようにして出家させられた花山法皇は、京を発ち、熊野詣の旅に出かけています。

以上の話は、歴史物語の『大鏡』に記されているものです。

 

花山天皇と安倍晴明とのエピソード

『大鏡』には、花山天皇の出家の経緯と共に、花山天皇と陰陽師・安倍晴明あべのせいめいの逸話も残っています。

安倍晴明、すぐさま花山天皇出家を知る

藤原道兼に導かれ、出家のために夜密かに内裏から抜け出した花山天皇の一行が、陰陽師の安倍晴明の屋敷の前を通ったときのことです。

中から「帝が退位なさるとの天変があった。式神一人、内裏へ参れ」という声が聞こえたのです。

目には見えませんが、何者かが晴明の家の戸を開けて出て来ると「たったいま天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたそうです。

当代きっての陰陽師・安倍晴明は花山天皇の行動を見抜いていたようです。

花山法皇、晴明の助けで修行に邁進する

道兼に裏切られたことで心に深い傷を負った花山法皇は、わずかな供を連れて那智で庵を結び、千日の修行をしました。

ところが、その修行中に天狗が現われ、邪魔をするのです。

そこで、法皇は安倍晴明を呼び寄せ、天狗の妨害を防ぐよう依頼。

晴明が岩屋に天狗たちを封じ込めたおかげで、花山院は無事に千日の修行を終えたと言われています。

 

花山天皇出家が、平安期No.1公卿・藤原道長を導いた!?

花山天皇退位後の内裏では、懐仁親王が第66代一条天皇として即位させることに成功した藤原兼家が、他の藤原氏のライバルたちを抑えて摂政として活躍しました。

やがて兼家が死没すると、今度は彼の長男道隆が関白となります。

花山天皇を欺いた張本人である三男の道兼は、自分が関白になれずにがっかりしますが、5年後に道隆が亡くなると、ついに関白の地位を手中にします。

ところがなんと彼はその数日後に病死してしまいました。

その代わりに摂政や関白に準ずる内覧という地位に就任したのが彼の弟です。

藤原兼家の四男(五男とも言われる)のその人物こそ、のちに平安期の朝廷で藤原氏の頂点を極めた藤原道長だったのです。

花山天皇の出家は、9年後に道長というスーパースターの登場へと繋がるものだったのでした。

 

きょうのまとめ

今回は、平安中期に登場しわずか2年で出家して退位することになった花山天皇の出家にまつわるお話をご紹介いたしました。

簡単なまとめ

① 花山天皇は在位期間たった2年で出家した

② 花山天皇は、藤原兼家・道兼父子の策略によって出家させられてしまった

③ 花山天皇が出家した9年後、次々と亡くなった兄たちに代わって政治の実権を握ったのが藤原道長である

花山天皇の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku